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人生で最もつらい映画鑑賞だったかもしれない(シャニアニ第3章感想)

(ネタバレ有につき閲覧に注意してください)










 シャニマスのファンは、シャニアニについて批判的な感想をSNSで言うべきではない――という意見は、確かに一理あるかもしれません。感想を検索したとき、そこに否定的な意見ばかりが並んでいたら誰だって嫌になるでしょう。度が過ぎれば、そのコンテンツは潜在的なファンを失っていくかもしれません。だからたとえ受け入れがたいものが出てきたとしても、表立っては否定せずにおく。それはひとつの現代的な倫理だと思います。
 しかし、ファンの倫理とは別に、鑑賞者の倫理というものもあります。端的に言えば、作品に対して嘘をつくことはできない、ということです。鑑賞者は自らの価値判断を嘘偽りなく示さなければならない。そしてどんな作品であれ、作品として発表されている以上、私はファンである以前に、ひとりの鑑賞者として向き合いたいと思っています。
 そこで遠慮を排してはっきり結論を言うなら、シャニアニ第3章は本当に最低の作品でした。最低というのは文字通り、褒められるポイントがどこにもない、という意味です。最後にストレイやノクチルの面々が出てきましたが、正直なところもういいよ、続編はもう作らないでくれと思っていました。
 言うまでもないことですが、彼女たちの物語に対してそのような印象を抱くのは、本当につらい体験でした。初めてアニメ化が発表されたときのわくわく感が思い出され、映画が終わった後、あんなに惨めな気持ちで劇場を後にしたのは、もしかしたら生まれて初めてかもしれません。

1.このアニメの根本的な無内容さについて
 シャニアニ第3章を観て私がまず思ったのは、徹頭徹尾「内容がない」ということです。ここで言う「内容」とは、主題やモチーフと言い換えてもいいでしょう。それはもちろん、政治的・社会的メッセージだけを指すのではありません。キャラを格好良く描きたい、可愛く描きたいというのも、またひとつの主題であり、内容です。
 一時期は「日常系萌えアニメには内容がない」というような物言いが流行していました。しかし、それは誤りです。『きんいろモザイク』にせよ『ご注文はうさぎですか?』にせよ、そこにはキャラクターに対する温かいまなざしがあり、繊細な芝居があり、空間の造形がありました。そうして構成された箱庭的な虚構世界は、それ自体としてひとつの主題をなすものです。
 それにひきかえシャニアニ第3章は、そのような造形的意志が画面のどこからも感じられず、全編「それらしいシーン」と「それらしい言葉」を漫然と並べているに過ぎません。さながら『葬送のフリーレン』に出てくる魔族が人間の気を引くために「お母さん」と連呼するように、「勇気」「空」「未来」といったフレーズを連発しているだけのアニメです。それらは何の意味も体系も持っておらず、どこかかから集めてきた「エモ」の断片でしかない。「(シャニアニには)内容がない」というのは、そのような意味においてです。
 出来の悪い短歌のような「エモ」の羅列からは、何も生まれてはきません。以下に述べる通り、シャニアニ第3章は全方位に問題を抱えていますが、中でも最大の問題はこれだと思います。

2.演出(の不在)について
 演出について言うと、もはや映像による表現それじたいが自堕落に放棄されているという印象でした。あらゆる展開が台詞による説明で済まされてしまうので、真乃の決断もライブの準備も、実感が伴わないまま言葉の上で進行していくのみです。また無芸なクローズアップの連続は作品世界の立体感を損ねてしまっており、合宿の場面など特にそうですが、誰がどこにいてどう移動しているのかまるでわからないカットだらけになっています。
 撮影や編集を含め、造形的に褒められる個所はただの一ヵ所もなく、3DCGの粗悪さ(夏葉の髪は塩昆布かカップヌードルの縮れ麺みたいにしか見えない)と併せて、真面目に観るほど索漠とした気分に陥っていきます。『SHIROBAKO』に「首から上がちゃんと描けていれば客は満足なんだよ」という台詞がありますが、シャニアニは「首から上」さえきちんと描けていません。
 季節が加速していく……などと言うわりに、季節の変化もほとんど感じられず。こんなにも季節感のないアニメは珍しいのではないかと思うほどです。一応「夏」の記号としてスイカと花火が登場しますが、本当にただの記号でしかなく、それらを画面において活用しようという意思は見られません。ただスイカと花火を置いてさえおけばそこに「夏」が立ち現れてくるだろうというような発想です。
 とにかくシャニアニの提示する作品世界からは、時間の流れや空間の広がりといったものがまったく感じられず、全編が書き割りじみた平板なものになってしまっています。

3.キャラクターの描き方について
 登場人物の芝居についても違和感があります。例えば冒頭、はづきさんが恋鐘に発声上のアドバイスをしながら変なハンドサインみたいなポーズを決めていますが、見てわかる通りおそろしく不自然です。これに限らずシャニアニには、およそ人間の自然な動きというものを考慮していないとしか思えないような挙動が頻出します。
 登場人物たちはプールサイドに移動したり、合宿所の前の石段に集まったりしますが、それらの行動にもひとつひとつ脈絡がなく唐突感があります。彼女たちは水面に映る月とか、全員で空を見上げるとかいったアドホックな「エモ」のための操り人形になっており、生きている人間という感じがしません。そこで交わされる会話や独白も、空疎そのものです。
 加えて言うと、シャニアニには人物造形というものが存在しておらず、真乃やプロデューサーなども含め、どんな人間なのかほとんど何もわかりません。彼女たちにはどういう家族や友人がいるのか、学校や社会における立ち位置はどういうものなのか、どういう美学を持ち、何を動機にして動いているのか、過去にどういう成功や失敗をしてきたのか。キャラクターの最低限の人となりすら表現できないのだとしたら、このアニメの存在価値はどこにあるのでしょうか。教えてもらいたいくらいです。
 そして、そのような正体不明の人間を16人集めたところで、どうやっても面白い劇になるはずがありません。面白くないだけならまだしも、シャニアニが展開する物語は、あちこちに首を傾げてしまう箇所があります。

4.物語について
 いよいよ本格的にブレイクし始めたアンティーカの面々。彼女たちは個人での仕事がたくさん入るようになり、一緒に過ごす時間が徐々に少なくなっていきます。霧子や咲耶は、そのことに寂しさを滲ませていて……。
 シャニアニ第3章の冒頭において提示されるのは、このようなシチュエーションです。当然、それは彼女たちが直面している課題なのだろうと観客は受け取るでしょう。そして、この件については以後に何らかの展開が発生し、何らかの解決が行われるのだろう、と考えるわけです(ゲームのシナリオにおける展開を知っていればなおさら)。そうでなければ、こんな話をわざわざ匂わせる理由はありません。
 しかし、そういう当たり前の感覚が、シャニアニ第3章には存在しません。灯織が「個人で仕事を頂けるなんてすごい」とか何とかずれたリアクションをし、真乃が「それが……最初の勇気!」などと勝手な自己完結をして、この話は以後それっきりです。だから観ている側としてはあれ、あのアンティーカの話はどこに行ったの、となってしまいます。
 シャニアニ第3章はこのような、必要のない挿話/必要な挿話の欠落により、機能不全をきたしている描写が多く見受けられます。細かい点で言えば、智代子がカレーに「隠し味」としてチョコをどばどば投入し、他のキャラが「そんなに沢山!?」とリアクションをするシーンなどもそれで、然るべきオチがないのでギャグにもなっていません。
 物語というのは〈ああだったから、こうなった〉〈こうだったから、そうした〉という論理の組み合わせによって成立します。ところがシャニアニにはそういう論理が極端に希薄で、ただ散発的に問題が発生しては有耶無耶に解消されていくという繰り返しになってしまっています。だから最後まで観終わっても、結局これが総体として何の物語だったのかまったくわからない。結局それは、最初に述べた「内容」の不在と繋がってくる問題なのだろうと思います。

 最後に。シャニマスは昨年4月、『283プロ見守りカメラ』という名/迷企画を実施しました。事務所の窓の外を映した映像を6時間配信するという珍妙な企画です。時折アイドルたちの声や生活音が聞こえる中、空は少しずつ暮れていきます。
 私は冗談抜きで、シャニアニの6時間より、あの「見守りカメラ」の6時間の方がはるかに映画的に面白く、美しいと感じます。60年代にマイケル・スノウという監督が、海の写真へカメラがズームしていくだけの映画を撮っていますが、あの企画を提案した人は、そういうミニマリズムと呼ばれる技法のことを知っていて、それが念頭にあったのだろうと思います。
 実際、「見守りカメラ」の映像にはなだらかな時間の流れがあり、カメラの奥に広がる生活空間の確かな手触りがありました。これと見比べたとき、シャニアニが繰り出してきた数々の「エモ」が、キャラクターの生きる世界を描くという本質から外れた不純物でしかないことは明白です。借り物のイメージを継ぎ接ぎするのではなく、彼女たちの生活と人生にまっすぐ目を向けてほしかった。何もかも今更ですが、そう思っています。


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