シャニアニ1話の演出について


『アイドルマスター シャイニーカラーズ』(2024)

 ようやくTV放映が始まった『アイドルマスター シャイニーカラーズ』(2024、以下「シャニアニ」)。かなり賛否が分かれているようですが、皆さんはどのような感想をお持ちになったしょうか。
 
初めに言っておきますが、私はシャニアニの先行上映を3章すべて観て、3回とも批判記事を書きました。つまりポジションとしては、かなり苛烈な「否定派」ということになりそうです。その理由について改めて記すことはしませんが、あの衝撃的なガッカリ感は、今もはっきり覚えています。

 しかし、今回テレビ放送された第1話については、私はそれほど悪くない出来だと思っています(というか、そう思い直しました)。物語を支える演出が、わりとしっかりしているからです。この記事ではシャニアニ第1話の映像表現に注目し、それがどのような効果をもたらしているかについて、ごく簡単に書いておきます。



1.ロングショット/クローズアップ
 
初っ端から他のアニメの引用で恐縮ですが、たとえば、このように連続する2つのカットがあります。

『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』(2023)

 作ったばかりのバンドのSNSアカウントを眺める少女の姿が、1枚目はロングショットで、2枚目はクローズアップで撮られています。前者は彼女の孤独な生活状況を、後者は彼女の幸福な心情を、それぞれ際立たせていることは明らかです。
 このカットの対照は、彼女という人間のありようを痛切に物語っています。つまり、ひとりぼっちであるがゆえに、あるコミュニティに強く入れ込んでしまう人、ということです。ショットサイズの使い分けによって可能になるのは、こうした表現です。

 一般に、ロングショットは人物への感情移入をシャットアウトして客観的な状況を伝え、逆にクローズアップは人物への共感を促します。これを使い分けることによって、映像は言葉以上に多くのものを語ることができる。この原則を確認したうえで、シャニアニの画面を見てみましょう。

 ひとりで帰宅する真乃の姿が、どちらもロングショットで収められています。そこに示されているのは、むろん彼女の孤独です。前後のシーンでも、カメラは彼女と一定の距離を保っています。モノローグも表情の変化もなく、そのアクションは感情移入を排した客観的視点において把握され続けていますから、ここでは真乃は風景同然の少女であり、いささかも主人公にふさわしい姿を見せてはいません。

 クローズアップによって彼女の心情が開示されるのは、このカットからでしょうか。言うまでもなく、それはプロデューサーとの不意の出会いがもたらした彼女の動揺を示しています。そして「新しい世界」という言葉を聞いたとき、彼女の揺れる瞳を、カメラはエクストリーム・クローズアップで捉えます。

 おそらくこの時点で、彼女の心は実質的に決まっていたのでしょう。ただためらっただけです。だから翌日、彼女は同じベンチに座り、再び声をかけられるのをどこかで期待していた。コミュのことはひとまず忘れ、虚心に映像を追っていけば、おおむねそのような解釈に落ち着くでしょう。
 しかし、そんな説明はここではどうでもいいことです。大切なのは、クローズアップのこうした導入によって、これまで風景の一部に過ぎなかった真乃が、内面を持った一人の少女として捉え直され、我々の共感を強く喚起する特権的な存在となっていく――つまり主人公として新たに立ち現れてくる、という点にあります。そう、人はクローズアップによって主人公になるのです。
 風景から主人公へ。これを描くために、シャニアニ1話は前半12分近くを捧げています。贅沢なアニメですね。



2.天候による表現

 一連の流れを、別の角度から捉えてみます。
 真乃が下校するシーンは、1話において3度反復されています。こんなにも短時間で帰宅を繰り返すキャラは珍しいでしょう。そして1度目は雨、2度目は雨上がりの昼間、3度目は晴れ。蕾から開花へ。彼女の人生が善き方向に転じていくことは、気候と天候の変化によって示されています。反復の中に段階的に変化が導入されていくことで、ひとつの決定的な転機に至るという構成の意図が、ここからは見て取れるわけです。

 3度目の帰り道の途中、真乃がふと視線を上げるのは、そうした「空」の啓示に気づいたからではないでしょうか。彼と出会ったときに、雨は止み、晴れ間があった。そしていま、空は澄み渡っている――彼女は運命の存在をエピファニー的に見出し、それが彼女の決断の最後の一押しとなった、というわけです(自分で書いていても眉唾感がすごいのですが、このカットはそれ以外に整合的な解釈が思いつきません。誰か教えてほしい。コミュにこう書かれていますってのは無しで)。
 登場人物の境遇や心理状態を天候に象徴させるやり方は、わかりやすく表現効果を得ることができますが、あまりにもあからさますぎて、ダサくなって終わるケースも多いものです。この点シャニアニは、比較的スマートな処理をしていると言っていいのではないでしょうか。



3.置く・使う・動かす
 ここでまた、優れた作例として、別のアニメを引用してみます。わりと有名(?)なシーンなので、アニメファンなら見覚えのある方も多いと思います。

『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(2021)

 電子ピアノに触れるというごく自然な動作が、奥のキャラの顔を隠蔽しているのが恐ろしい。夢へと手を伸ばすことが、ひとりの少女の感情的犠牲を伴うことに、彼女はまだ気づいていないようです。さらに2枚目においては、ピアノのX字のスタンドが、ふたりの肉体的・精神的交差を表象している。断絶と交わりの双方を、このピアノはみごとに視覚化しています。むろんこのような演出を実現するためには、部屋の中をキャラがどう動くか、あらかじめ設計しておかなければなりません。

 何をどこに配置しどう使うか人をどう動かすかといった判断は、そのシーンの出来を決定づける重要なポイントです。そこには演出家の手腕とセンスが、そのままに露呈します。実写とは違い、偶然の美に頼れないアニメにおいては尚更です。さて、シャニアニはどのような答えを出しているのでしょうか。

 これはまあ初歩的というか、ごくわかりやすい例です。一度目の邂逅では、二人の断絶がベンチによって表現されています。歩み寄ろうとするプロデューサーはしかし、その境界線に留まって彼女の歩み寄りを待ちます。そして二回目の邂逅で、真乃は誘いに乗ってその境界線を越える。こうして二人の関係の変化が、映像として刻印されます。

 真乃がめぐると灯織の待つレッスン室に入っていくシーンです。ここにも境界線が設定されています。それを越えることで、真乃は真にエンターテイナーとしての一歩を踏み出すことになります。
 しかし、それだけではありません。ここに至るまでの推移を思い出してみましょう。①アンティーカのライブを最後列で観ていた彼女が、②窓越しにイルミネの二人と視線を交わし合い、③彼女たちの領域へと足を踏み入れるーーつまり真乃は、アイドルという存在に対して空間的に少しずつ接近していくわけです。
 自分にはとても無理だと思われたような輝きに近づいていくこと。シャニアニ1話が後半に描いているのは、まさにその歩みです。カメラワークがまずく、演出の効果が減殺されているのが残念ですが(発想に対して技術的洗練が追いついていない感じは、シャニアニの全編から漂ってきます)、少なくとも、モノと空間を有効に使って何かを作ろうという意思は、そこに感じられるのではないでしょうか。


 第1話については以上です。ネットの議論はどうしても物語やコミュ内容との関連云々に終始しがちで、映像の具体的内容そのものに言及した感想をあまり見かけない気がしていたので、自分なりに書いてみました。真乃の下校シーンを反復しながら少しずつ変化を見せていくあたりは、個人的にはかなりおしゃれで技巧的な演出だと思います。
 シャニアニは、いろいろ頑張ろうとはしているのだと思います。それが総体としてうまくいっていないのだとすれば、その原因もまた、構成要素の具体的な検討によって明らかにされなければならないでしょう。シャニアニはドキュメンタリーだとかいやそうじゃないとか、抽象的なことを言い合っていても仕方がありません。ひとつひとつの画面に眼差しを向けることが大事だ、ということを、ひとまずの結論としておきたいと思います。

 





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