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『消滅世界/村田沙耶香』から考える、この世界の行く末

先日、友人から表題の本をおすすめされた。ありがたいことにわたしの周りには、わたしの好みや思考回路、性癖など(?)を把握している友人が少なからずいる。そしてたまに、私の好きそうな小説やアニメなどをおすすめしてくれるのだ。

「消滅世界」は友人曰く、わたしが絶対絶対絶対好き、らしい。ちょうど暇を持て余していた私は(まあ常に暇だけど)、時間があったら読むか〜程度に、あらすじを調べてみた。

セックスではなく人工授精で、子どもを産むことが定着した世界。そこでは、夫婦間の性行為は「近親相姦」とタブー視され、「両親が愛し合った末」に生まれた雨音あまねは、母親に嫌悪感を抱いていた。
清潔な結婚生活を送り、夫以外の人やキャラクターと恋愛を重ねる雨音。だがその“正常”な日々は、夫と移住した実験都市・楽園で一変する……日本の未来を予言する傑作長編。
◎解説=斎藤環

……絶対好きなやつやん。直感でそう感じたわたしは、翌日には本を手に入れ、翌々日には読了していた。そしてこれは感想を残しておくべきだなぁと思い、自らの感情という稚魚をインターネットという情報の海に放流している次第である。小学3年生でインターネット(広義)を知ってからというもの、ありとあらゆる黒歴史を生み出してきたわたしだが、飽きもせずまた新たな黒歴史を塗り重ねようとしている。まあ黒って何回塗っても黒のままだし。

さて、本題に入ろう。(余談だが、小学生のロリわたしが愛してやまなかった、青い鳥文庫の「夢水清志郎シリーズ」の名探偵・夢水清志郎は、謎解きの前に必ず「さて――」と言ってから語りをスタートさせる。さて、が絡まった結び目をほどき出す合図なのだ。20代も折り返そうとしている今でも、さて、という言葉を聞くと彼を思い出す。)(はよ本題入れ。)

気を取り直して。この小説は壮大な思考実験のようだと感じる。それを言うと小説というモノ自体、大なり小なり作者の思考実験なのかもしれないが。もし「家族」「恋愛」「生殖」がそれぞれ切り離されていたら?という設定の世界。
「家族」は情緒的な繋がりや、経済的な助け合いを求める役割。生きるために合理的だから利用するだけの、単なる制度。
「恋愛」は家族以外のヒト、もしくは漫画やアニメのキャラクターと行う。性欲もここで満たす。
「生殖」は人工授精で行うため、セックスをする必要はない。思春期には全員が避妊処置をする。

さらに物語後半では、実験都市となった千葉に移住。そこでは医療の発達により、男性も人工子宮を用いて妊娠、出産ができる。人口はコンピュータで管理され、毎年指定された人が12月24日に一斉に人工受精を行う。もちろん生まれる時期もほぼ同じになる赤ちゃん達は、皆一様に「子供ちゃん」と呼ばれ、揃いのおかっぱ頭にスモックという格好。「子供ちゃん」以外の大人は、男も女も関係なく全員「おかあさん」。全員が全員の「子供ちゃん」であり、「おかあさん」であるのだ。そこには貧富の差も、愛情の差もなく、まさに楽園――。

この小説では物語が進むにつれ、「セックス」「恋愛」「家族」がどんどん消滅していく。そして最終的には「個人」という概念すら消滅に向かう。一見するとファンタジックな話であるが、このまま世の中が“正しい”方向へと進んでいけば、あながち想像上の話だとも言えなくなる気がする。

ふと、わたし達は、そしてこの世界はどこへ向かっているのだろうと考えることがある。オフィスでも駅のホームでも構わず煙草を吸えた時代から、今となっては喫煙者の肩身は狭くなる一方だ。エロもグロも昔より規制されることが増えた。もちろん副流煙は体に悪いし、未成年などに対するゾーニングは必要だ。世の中のモラルが向上しているのは喜ぶべきことだが、果たしてこのまま洗練されていったクリーンな世界は、本当に“正しい世界”なのだろうか?合理化、効率化の行き着く先は均一化、この小説で言うところの「個の消滅」なのではないだろうか?(作中に消滅という言葉は出てこないが)。

わたしはどちらかというと「理性」が強いほうだと思う。パッと見(パットミって響き可愛いね)ポジティブ元気な感情型だと認識されやすいが、実は感情よりも理性が先立つことの方が多い。だが最近は、感情を言語化することを意識している。その行為自体が理性的だとも思うが、感情というものは空のように移ろいやすい。感情を言語化し、可視化することによって、抽象的で不透明である「感情」を理解しやすくなり、自分のものとして納めることができる気がするのだ。

これは洗練されゆく世界への、ささやかな抵抗である。武器を持たないレジスタント(楽器を持たないパンクバンド)(本当はレジスタンスだけど語感的に許してほしい)。わたしという「個」が消滅しないように、ある種、野性的である「感情」というものを発信する。感情は生物の本質だ。

コロナ禍によるニューノーマルが叫ばれるようになって、1年以上経った。正直、こんなにあっけなく「普通」の概念が変わってしまうことに、驚きと恐怖を覚えた。「普通」というものはわたし達の集合知が作り出している幻想で、確固たる足場があるわけではない。それ故、コロナのような嵐が起きれば瞬間的に変貌を遂げてしまう。作中、主人公は言った。

「洗脳されてない脳なんて、この世の中に存在するの?どうせなら、その世界に一番適した狂い方で、発狂するのがいちばん楽なのに」p.263
「世界で一番恐ろしい発狂は、正常だわ。」p.264

繰り返すが、正常≒普通とは幻想だ。コロナや大災害などの予期せぬ事態や、年月の経過により、いとも容易く変貌する。もちろんこの時代の地球に生まれた以上、ある程度は「普通」を理解し、社会に迎合しながら生きていく必要がある。だが、雲のようにふわふわとした「普通」ばかりを追い求めていても、実態がないのだから掴めない。それよりも自分の内側から溢れ出る「感情」を指針とする方が、よほど得策なのではないだろうか。

そしてわたしは今日も、自らの感情という稚魚をインターネットという情報の海に放流し、黒歴史に黒歴史を上塗りしながら生きていく。


P.S.
今回の内容とは若干趣旨が異なるが、以前読んだ記事を思い出す部分があったのでリンクを貼っておく。わたし達が今生きている世界では、「生殖」と「セックス」を切り離すことは、まだ一般的ではない(体外受精などはあるが)。その代わりに「恋愛」と「セックス」を分けて、「結婚(家族)」について考えているのが以下の記事だ。こんな駄文をここまで読んでくれたあなたには、是非こちらの記事も読んでみてほしい。


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