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『ポジティブさ』の裏にある痛々しさと『依存』の裏にあるたくましさ

誰から見てもポジティブで明るく、元気であるにも関わらず、実は芯が弱い人と、一見弱々しく見えているものの、実は芯がものすごく強い人というタイプの人たちが、一定数存在しています。

私は前者を「脆弱ポジティブ」、後者を「強靭依存」と呼んでいますが、この二つのタイプの人たちの内面で、根本的な変容が起きるように支援するのは、至難の業だなといつも思います。

「A.脆弱ポジティブ」と「B.強靭依存」は真逆に見えますが、構造的な心理
作用は似ています。
どちらもポジティブでいること、依存することがやめられないのですが、それをやめてしまうとどうやって生きていっていいのかわからないというくらいの恐れがそこには隠れていたりします。

Aの場合は、ポジティブでいることをやめてしまうと、人としての魅力を失ってしまい、周りから見切りをつけられて人が去ってしまうのではないか、弱みを見せてしまうと、そこに付け込まれて翻弄され、自分がどうにかなってしまうという人格の基盤の崩壊を恐れるくらいの妄想に埋め込まれているケースが多くあります。

Bの場合は、自分の本当の強さを認めてしまうと、誰からも相手にされなくなって助けてもらえなくなり、何もかもを自分で何とかしなくてはならなくなる。
そうすると生きていけないという漠然としたプレッシャーを恐れていたりします。

いずれの場合も、根拠のない誇大妄想に過ぎませんが、本人にとってみるとそれは真実にしか見えていないばかりか、それを明確に自覚しているわけではなく、漠然と自分に覆いかぶさっているような感覚の中にいるため、支配されたままになってしまっています。

そして、どちらの妄想にも共通するのが「最後の最後は誰も助けてはくれない」という固定観念です。

Aの場合は、ポジティブさの魅力を失った後で、誰も見向きもしなくなった自分や弱みに付け込まれ翻弄され、人格崩壊した自分を助けてくれるわけがないという思い込みがあるようです。

Bの場合は、本人の意識の中では自信がなく自力で何とかできるとは思えていません。窮地に立たされると、なすすべなくものすごい勢いで、全てが壊れてしまうという感覚の中にいるので、そんな崩壊状況の中で、好き好んでリスクを取って飛び込んで助けに来てくれるはずがないという思い込みです。

つまりAは自分の存在に対して確信がなく、Bは自分の力に対して確信がありません。そんな自分だからこそ助けてもらえるはずがないとなっているようです。

条件付きの愛

確信のない両者は結局のところ「〇〇だったら(を満たしていたら)自分は愛される」という条件付きの愛の中に生きています。「何のかんのいって最後の最後は〇〇であろうとなかろうと自分はちゃんと愛される。なんとかなる」という無条件の愛の土台がある人はどちらのタイプにもならないようです。

存在の確信がないため、ポジティブさを愛される条件として売り飛ばし、力の確信がないため、依存という形で自分の尊厳を売り飛ばしてでも他者の力のお恵みをもらおうとする等の力学が働いているのが根本構造です。

どちらも窮地に立たされて助けられた感覚がないため、どれだけ言葉を尽くそうと態度で示そうと根本変容の支援が難しいと感じています。

そうした両者が突破するのは大変ですが、原理原則としては、自分が生かされていることを、ただ知り続けることにあるのではないかと思います。
両者は今の時点で自分は周りに支えられて生かされているのだという実感が乏しく、頭ではわかっていても肌身で実感できていません。

そのことを丁寧に知ることを積み重ねていく中で、本当の心の自由が得られるのではないかと思います。

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