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焼物師 【牝小路源七】について


小代焼中平窯の西川です(^^)
以前、公式ホームページの『やきもの日記』に書いていた内容を改めてご紹介します。


小代焼は牝小路家初代と葛城家初代が細川家のお国替えに伴い、福岡から熊本へ移住したことに始まります。

この時の移住した焼物師(幼い跡継ぎを含む)は2人ではなく、4人でした。
牝小路家初代・源七は自身の子供&孫と共に移住しているのです。


松本雅明氏によりますと、
葛城家初代・八左衛門の移住時の年齢は30代くらいであろうと推測されていますので、移住した焼物師集団の最年長は牝小路家初代・源七ということになります。


以下の文章は肥後移住前の牝小路源七についての文章となります。
マニアックすぎる記事となりすみません…(^^;笑





1753年に玉名郡奉行所に提出された先祖書によると小代焼は約400年前、
牝小路家初代・源七と葛城家初代・八左衛門が肥後へ移住したことから始まるとされています。



源七は子、孫とともに三代で肥後へ移住したとのことです。

1630年生まれの孫・又兵衛が2歳の時に肥後へ来たとされますが、それが細川家転封1632年のことだとすれば数え歳では3歳のはずですので覚え違いであると思われます。

まぁ、個人的には1年違いなので許容範囲の間違いかと思います。



実はこれまで私が知っていた源七に関する事柄は 肥後移住以降の出来事からなのです。

しかし、少し前になりますが古陶磁研究家の方から肥後移住前/豊前時代の源七に関する文章を教えていただきました。



内容としては

上野焼・皿山本窯に関係すると思われる陶工(あるいは売子)から領主はかうろ(香炉の意か?)41点と茶碗32点を購入し、代金は米で支払っている。
それらの製品は一か所に収納されている訳ではなく、各陶工(あるいは売子)の手元にある。

そして製品を手元に置いている中の一人として「源七ニ有」との記述がある。

というのです!

※永青文庫『松本市彦・栗山伝助・田中猪兵衛・加藤親兵衛四人へ遣差紙控帳 御奉行所』より


中央あたり、「源七ニ有」と確認できる。


上記の内容は2008年の
『海路 第6号 【特集】九州やきもの史』に記載されています。



因みに1990年の『上野 高取 八代 小代』では高鶴元氏が丹後時代の源七について言及されています。
それによると『丹後細川能番組』の中に「たるや源七」という記述があるとのこと。

しかし、
作陶とは関係のない能出演者としての記述でしたので、私の知識ではこの「たるや源七」と「陶工・源七」が同一人物なのか判断がつかない状態でした…(^^;




源七は皿山本窯専属だったのか、当時存在していた他の窯と掛け持ちで勤めていたのかは分からないようです。

しかし、源七が皿山本窯と関係があり、細川家から注文を受けて作陶していたことが分かり非常に感動しました!



2023年9月3日(日) 西川智成

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