Sicut Cervus

たまには、スマフォでだらだら書き連ねようと思う。

どういうわけか、帰り道で脳内でF-durないしG-durの Sicut Cervus(曲:Giovanni Pierluigi da Palestrina[パレストリーナ])が鳴り止まず。結構久々ではある。

音を作り、舞台を最後に作ってから4年間、音楽も東混(東京混声合唱団)を聴く以外はあまり触れてこなかったように思う。企画系はいくつかあったか、常設団では長らく歌っていない。
歌う気もあまり起きていない。特に何かに失望した、とかはなく、単純に気持ちの問題。

この10年くらいを俯瞰するとやっぱり、1番背筋の伸びた瞬間は音楽をしているときだったと思う。
それこそ、楽しさと真剣さが終始せめぎ合っていたこともあったが、根底にあったのは「曲に描かれている人間や世界にどれだけ近づけるか」だった。合唱始めたての頃は、歌詞やディナミク(音の強弱のこと)に迫り、何をするとどんな表現になるかで頭がいっぱいだった時期もあった。
それから大分経ち、音の置かれる必然性、舞台の必然性のようなものを気にしだし、拗らせ、その結果生まれたのは影アナや幕間で表現する、という一つの結論を見出したりもした。
いくら迫っても迫りきれない人間性、世界観に幾度となく、自身の無力さを思い知らされ、それは音楽の技量というよりは、主に考えの至らなさ、突き詰めの甘さに対してだったと思う。ただ、そう思えたことはある種幸せなことで、実際、心地よさも感じていた。

混声合唱といえば三善晃、と言われていた世界で長く過ごしていたが、今の流れはもっと違うところにあるのだろうなぁと思ったりもする。

音楽から少し離れた時、武満徹や林光、池辺晋一郎は昭和のテレビや映画の音楽の人でもあることを知った。当時のテレビや映画音楽がより緻密に聴こえてくる(俗物並感想)。

今の時代から1から合唱始めると、全く違うことを思ったりするのだろうか。等身大の自分を歌うことで見えてくるものもあるのだけど、追いきれない世界を追うのも良いものだと思う。

と、とりとめもなくなったところで〆。

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