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パラリンピックまでの道のり

妻とデパートの喫茶店で資格のガイドブックをめくった日の事を思い出します。妻は1人で子育てをしながら心にストレスを抱えていました。

その当時は、リーマンショックにより景気が悪く、人々は出費を抑え、私の働く会社でも人員整理が行われていました。新たな仕事に就くには、手に職をつける必要があると考えていました。

どれだけページをめくっても興味をそそる仕事はなく、その中で理学療法士というリハビリ専門職だけが私の目に止まりました。

私の前職は、大手外食チェーン店の社員 です。元々外食産業に興味があったわけではありません。

大学時代に完全燃焼できなかったアメリカンフットボールを、もう少し続けたいという思いから、アメフトチームを持つ外食企業からのお誘いを、迷うことなく受けました。 

そこから7 年間は、週3回アメフト部員として練習に励み、週4回は社員として厨房での調理や接客業務をこなしました。


同期入社であった私の妻は、結婚当初から、競技引退後に外食業の仕事を続けることを強く反対していました。多くの苦労している店舗マネージャーたちを見ていたからだと思います。

しかし、好きなアメリカンフットボー ルを7年間も続けさせてもらった私は、会社に恩返しをするべく、引退後は店舗マネージャーとして業務を続けることを決めていました。

しかし、いざその役職につき、店舗の運営を任されると、その業務は予想よりもはるかに重く、家では寝るだけの生活が続いていました。


リハビリの資格を取得するには、4年制の学校卒業が必須でした。息子2人を抱えながら、高額な授業料を払うことに当然ためらいを感じました。

しかし、妻の後押しもあり、仕事を休み、面接を受けるような気持ちで、スーツを着て学校説明会に行きました。真夏の暑い日でした。

その時のスライドに映されていたのが、パラリンピックで活躍する理学療法士の姿でした。これが私とパラスポーツの初めての接点です。

「こういう大きな舞台で活躍できる仕事がしたい。」 

私の新たな夢がこの時に生まれました。


東京パラリンピックでパラアスリートたちがメダルをかけて戦う日が近づいています。

この度、私は理学療法士として、車椅子ラグビーの試合会場で、選手のケガやアクシデントの対応をすることになりました。

私が、どのようにして、パラリンピック車椅子ラグビーに辿りついたのか。また、これから私が実際にどのような体験をするのか。

どこかの誰かの役にたつ事を期待しながら、少しずつ紹介していこうと思います。


nakaba ueno
上野 央

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