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小津安二郎監督作品「東京物語」をリスペクトする人が多い8つの理由 【おすすめ映画158】

(1)  ジム・ジャームッシュ監督に近いアプローチ

「細かい日常」を積み重ねてリアリティを出す手法は、ジム・ジャームッシュ監督に近いものがある。もちろん、小津安二郎監督の方が年代的には先である。言葉で説明するのではなく、日常を見せることで、「こういうことなんだな」と分からせる手法が特に優れている。

(2)  セリフの無いシーン

一般的な映画と比べると、「セリフなしの動作のみのシーン」がかなり多い。登場人物が何も喋らなければ、観ている者は、そこから何かを読み取ろうとする。もちろん、それが長すぎると、観ているものは疲れてしまうので、バランスが重要だ。セリフありのシーンと無しのシーンの配分が上手いのである。

(3) 立っているシーン、座っているシーン

立っているシーン、座っているシーン、それぞれ理由がある。座っているシーンが多いのは、畳文化ならではだろう。視線がグッと低くなるので、空気感が変わるのである。

(4) カット割りと心理描写

カット割りと心理描写のリンクがすごい。人物の表情中心、引きのレイアウト。コミックを読んでいるような感覚だ。日本がコミック大国であるのと、この当時の映画のカット割りが絶妙にうまいのは、何か関係があるのかもしれない。

(5) うるさい旅館

夜中までうるさい熱海の旅館。これが安くて眺めのいい旅館の正体だ。この描写がやたらと長い。今の映画だったら、このシーンにここまで時間を割くことはあり得ない。淡々とあっさりしている脚本と見せかけて、攻めるところは攻める時間配分である。

(6) 不幸でも幸せでもない

不幸なわけではないが、幸せとも言えない。このどちらとも言えない繊細な感覚は、最新の映像技術は必要ない。脚本とカット割り、そして、俳優陣の演技力があれば、描写は完璧なものになる。

(7) 半端ないアウェイ感

自分の実の子供たちを訪ねたのに、半端ないアウェイ感。ストレンジャー感。それで、パラダイスはどこにもないのか?という展開。どうやらこれは、世界共通の感覚のようで、日本以外の国でも、共感した人は多かったようだ。

(8) 人物とカメラの距離

人物からカメラが離れているシーンが多い。今の映画と比べると、遠すぎる感じがするかもしれない。遠いと人物の表情が分からない。観ている者は、表情を半分想像しながら観ることになる。そこで自分ごと化が起こるのだ。計算された、カメラとの距離感ということなのだろう。

芸術は電気製品と違って、後の時代の物の方が優れているとは限らない。この時代、この監督、このスタッフ、この俳優でなければ、撮れなかった作品なのだ。

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