描写だけでは辿り着けない境地【エッセイ】 #ブリリアントブルー
「文章を読んでもらうためには描写が大切ですよ。」
情景描写・心象描写、こういったものが丁寧に書かれていて初めて読者が付くようになる。
そう私は言い続けてきた。まま今もその考えは変わらないが、ここにきてそれだけでは辿り着けない境地があるなと思い返すに至っている。
緻密な描写よりも、大胆な文章表現で読み手を魅了させる。そして、そのテキスト表現が現物の写真を見るよりもさらに鮮明に読者の脳に刻まれるような、そういった手品のイリュージョンのような世界が文章の世界にもある。
そう思うようになってきた。
先日サトウカエデさんを迎えて文章のフィードバックを公開で行ったが、その時に上記の話を私はした。
ただ、残念なのはその収録当時のネット通信環境が非常に悪く、要所要所で私の話す内容が音飛びしてしまう事態となってしまったことだ。視聴者からすると非常に聞き苦しいものになってしまったかと思う。
そこで、私のパートのみであるがその時のフィードバック内容を書き起こしたものを用意したので、この場を借りてテキストベースで公開したいと思った。
できれば動画を見てほしい気持ちもあるが、皆さんの貴重な時間を配慮し、テキストベースで時間を圧縮させて届ける。こういった選択肢もあってよかろうと思い立った。
池松潤・嶋津亮太のフィードバックは音も途切れず鮮明なのでぜひ動画で視聴いただきたい。声のニュアンスでしか伝わらないこともあるから。
(以下書き起こし)
今ある小説の5000文字を1万文字から2万文字に展開しようということですが、読者の離脱というのはあり得る話だと思います。
1万字を超える長文の場合、基本は始まりの800文字以内で読者の心を鷲掴みにしないといけないと思うんですよね。
いわゆる原稿用紙2枚分のボリュームなのですが、エッセイなら思考の核となる部分の片鱗、小説ならシーンの描写で書き手の世界に引きずり込まなけらばならばならない。
私、情景描写だとか心象描写について、丁寧に自分の言葉で書くことの大切さ。これをずっと口が酸っぱくなるまで言い続けているのですが、今回はですね。この先のお話をしたいと思います。
確かにですね、描写の技術があがればあがるほど読者の皆様に伝わる幅が拡がってくるのは確かなんですが…
あの…言葉というのはですね。実は本質的には重ねれば重ねるほど世界が狭まってゆくものなんです。
たとえば…
「今日」「私は」「カレーライスを食べました」という文章があって、その先に「ピリ辛で」「ナスなんかのお野菜がたくさんで」…
「三杯おかわりしました」と続いたとしてどうでしょう。
これね、どれほど重ねてもカレーを食べた人以上にはならないんですね。
そりゃ、カレーを食べましたで2万文字書けたらそれはそれですごいんですが、それはもう読もうとは思わないですよね。
これは言葉によって事象が限定されてゆく場合に起こります。
これが小説なんかで圧倒的に読まれる文章になってくると変わってきます。
あえて書いたり書かなかったりの世界があったり、虚構をぶち込むことで真実に近い何かを読み手に想像させたりします。
文章で手品してるみたいになってくるんですね。
こうなると落語家の立川談志がいうところの『イリュージョン』があるかどうかのお話になってくると思うんです。
はい、これが描写からの次のステップです。
読者の脳にゆさぶりをかけるような大きな仕掛けがその文章の背後にあるかどうか!
以前、嶋津さんにフィードバックしましょうという企画があがった時に例に挙げたことがあるんですが、田中泰延さんがネパールの山々をこう表現したことがあるんですね。
出典:ネパールでぼくらは。
写真に収めようとはするが、まるで伝わらない。
8千メートルを超える山というのは、
実感でいうと、日本のわたしたちが
夏場に見る巨大な入道雲、あの大きさ、高さが、
そのまま、「岩」なのである、
そしてそれが何十もつらなる。
(田中泰延)
ええ、入道雲が岩になることはないんです。ないんですが、現実味のない8000m級の山っていうものを表現する時に、我々が知っている8000m級の何かをまず持ってくる。それを言葉の力でクルッと返しちゃうんですね。
この場合、「あのふわふわした雲を岩と思え」と、我々の想像力に呼び掛ける。そうした手法で写真に写らない山の壮大さをテキスト上に展開する。
すると見た事もないビジョンが目の前に迫ってくるんです。
世界が拡がってきます。
ちょっともう懐かしいんですが、あの時は私はこれを文章による描写だと思っていました。でも今はそう解釈していません。
それを今日は訂正しに来ました。
あれこそが立川談志が云うところの『イリュージョン』なんじゃないかと思い返すに至ったんです。
あれはもう頭の中のイメージを丁寧に描写してるだけでは辿り着かないですよ。
自分の経験。特に五感を使って捉えた世界がバックにないといけない。
更にそこには傍からは見えない仕掛けがあって、それをおくびにも出さずに、ここぞって時にさらっと目の前で反転させてあげる。
すると読者に驚きと感動が生まれるんですね。
これをやらない文章はどうしても読者からすると「長い文章を読んだなー」で終わってしまう。
これはディテールの表現だけの話じゃないですよ。
ストーリー展開でも同じ。この展開の進め方なら読者にゆさぶりを掛けられる。多面的に世界が拡がる。
そういったことは思う存分にやってみたら良いと思うんです。
これをですね。サトウカエデさんに考えてもらえたらいいねと思っています。
今回の作品は綺麗なんですが、どこか平坦でのっぺりしているんです。例えば#あの夏に乾杯で受賞した作品、あの『サマートレイン』の時のような心のざらつき。それが今回はない。
おそらくですが、このまま2万字に引き延ばしたら読者は離脱しちゃうと思います。
じゃあ、具体的にこの話をカエデさんの文章にどうフィードバックするのという話なんですが、今でも5000文字の長めのお話ですが、感情の起伏を表現するのはもちろんのこと、ストーリーの展開に舞台装置のような大きな仕掛けをつくってやれば良いじゃないかと思っています。
たとえば、あの夜道で追いかけて来た者の正体は本当に犬のポチで良かったですか?あ、ネタバレして申し訳ないですが…
このお話の転換部分であるエピソードにメスを入れてみましょう。
もしかしたら…ですよ。あれはポチの姿を借りた何かでも良かったんじゃないかなと私は考えています。
もっと想像をふくらませて…
過去にさかのぼって、9歳のチカと主人公のこーちゃんという男、もしこの二人の過去の記憶が違っていたらとしたら…どうですか?
ひとりはポチの姿を見ていて、ひとりは別のなにかが追いかけてきたという異なった記憶が残っていたとする。
すると二人の思い出が噛み合わないことになる。その噛み合わない記憶を二人で探る。そんなエピソードが展開されていたとしたら…
だとしたら…
そうするとそれはポチではなく、何か別の存在が二人を引き寄せたというような怪奇的で神秘的な話が急に目の前に現れてきます。
アイスのあたりを引くところも何となく伏線になる。
もうね、虚構と現実を織り交ぜちゃう。現在と過去を行き来する。
結果、淡い青春だけの話ではない何かがそこに残る。
これは舞台が夏祭りの境内ですからそういう展開もありなのかなと思っただけなんですが、それぐらいの緩急をつけて読者を驚かせるくらいの圧倒的な何かがあっても良かったのかな…
読んでいて、そう思いました。
フィードバックしたサトウカエデさんの作品はこちらです。
ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー