トイすおーりー

大人こそ涙する!『トイ・ストーリー4』の感想【※ネタバレあり】

毎月1日はサービスデー。
「ああ、そういえば、映画料金が安くなるから、せっかくだから、なんか観よう」と思い、ふらっと映画館へ。

そこで、たまたまやっていたのが『トイストーリー4』

最初の『1』を観たときは、僕は小学生だった。
所詮、子供向け映画でしょ? っと、そんな期待をしてませんでした。たぶん、CGが綺麗で、子供も楽しめるぐらいの分かりやすいテーマなんだろうな、ぐらいにしか思ってませんでした。


しかし…、

いざ見てみると…


3回、泣いていましたwww

正確に覚えていませんが、たしか中盤でもうすでに一回。そして、終盤に2回です。
いい意味で裏切られた! という他にありません。

ということで、その感動した勢いに任せ、『トイストーリー4』の感想と、「大人こそ見るべき理由」を3点、書いていきます。


①忙しいあなたに。さくさく進み分かりやすくコンパクトな話

まず、本作は100分という2時間に満たない短さです。
冒頭から、話がテンポよく、淀みなく、全く無駄なしに展開していきます。よくこんなにコンパクトにまとめたなと感心です。(なぜに上から目線?)

そして、子供向けアニメあるある。
話めっちゃ分かりやすい。

「表向け(子供向け)」のテーマは、「ウッディー」が、迷子になったごみで作られたおもちゃ「フォーキー」を、その持ち主である女の子「ボニー」の元へ、届けるという内容です。

そこに待ち受ける困難や、仲間との対立、苦悩、バトル。
老若男女、誰にでも分かるようなテーマです。

②半端ないCGのクオリティ

次が、「映像技術の進化」です。
言うまでもないでしょう。

全編通して、「これがCGなのか」、想像以上に…、まぁ、綺麗です。(小並感)
僕は『1』を観たときも、「すんげぇCGだ!」と思ってましたが、再度確認し『4』と比較したら、こんなに違ったのか! と驚きました。20年経ったんだから当然ですが、雲泥の差です。

(※参考動画:1と4の比較)


■おもちゃが実際に冒険するとしたらという「おもちゃ目線」の描写のリアリティ

細かく、リアリティを持り、それが忠実に再現されてます。例えば、インテリアの裏の埃やクモの巣、コンセントの乱雑さ、光の表現。
それによって、小さい頃にこっそりと秘密基地を作るようなワクワク感を蘇らせるんですよね。これはたまらんのですわ。


■ボー・ピープの「質感」

「ボー」(CV:戸田恵子)は本作ヒロインであり、作品の要ですが、「ボー」は陶器製で、他のおもちゃとは質感が大きく異なっています。
鏡のように「周囲の背景」や「光」がめっちゃ複雑に反射するため、それを忠実に再現できないと、作品自体が成立しないわけです。

しかし、その問題を見事にクリアしていました。

特に特に、難しいのは夜のシーンです。文字通り「色々」な光(自然光や室内の光、ネオンなど)が「ボー」の体に複雑に反射するわけですから。後述の、ウッディとの遊園地での別れのシーン(まぁ、本当は別れないんだけど)にも、直結します。

なので、リアリティー(実在感)が半端ないことになってました。大人が観た方がより、その再現性の高さが分かるのではないでしょうか? 

他にも、「ウッディ」の新しい持ち主、女の子の「ボニー」の髪の質感。まぁ、これに関しては、既に他の作品(モンスターズインクとか)で、その技術の高さは言われてますけどね。

映像技術の高さには、ほんまにピクサーは世界最高最高水準ですわ。


③子供には巧妙に隠された現代的な深いテーマ「“本当”幸せとは?」そして「自分とは何か?」

最大の魅力はこれです。(※ここからが長いです)

先ほど、「表向きの」と書いていましたが、「裏側の(大人向け)」テーマはこれです。

「自分にとっての本当の“幸せ”とは何か? そして、それを向き合って、それを見つけたとき自分はどうあるべきか?」

これなんです。

「子ども向けアニメ」という皮をかぶった、とんだオオカミ映画ですよ。(イミフ)

このテーマを背負ってるのが「ウッディ」です。(なんて重いテーマなんだ…)
そこにウッディー(CV:唐沢寿明)がどう向き合っていくか、選択していくのか? それが最大の魅力です。

■【考察と前提】:各キャラクターの物語における役割とは? 

ここで今更ですが、ウッディの「背景」を物語のいきさつを合わせ、ざっくり整理、おさらいしておきましょう。

======【背景】======
最高の友達だったアンディは、大人になっておもちゃでは遊ばなくなりました。そこで、アンディは自分が持っていたお気に入りのおもちゃ達を、「ボニー」という女の子に譲ります。そして、ウッディはこれまでと同じようにおもちゃとしての“役割”を果たすべく「ボニー」の元で奮闘します。
しかし、アンディは必死にその役割を果たそうとしますが、同時にアンディの時と比較してしまいます。そして、自分の内面(「内なる声」)と向かいあい始め、自己矛盾に気づき、葛藤していきます。

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とまぁ、こんな感じです。
(もう完全に、おもちゃが人間にバレないように動き回る、なんて単純な話じゃなくなっています。)

ここでいう葛藤とは

・おもちゃは人間(=子供)を幸せにするという社会的役割
・上記を達成したときに得られる幸福感(=対価)

この板挟みだと思われます。これまで、アンディとの間ではこれの構造が成立していました。
しかし、ボニーとの間では途端に破綻します。

その要因が「フォーキー」の存在です。

ボニーは製品化されたおもちゃではなく、手作り、しかもごみ箱から拾われて作られた手作りの「フォーキー」を一番大事なおもちゃに認定します。「製品化=おもちゃ」という定義をぶち壊します。つまり、「フォーキー」は、それまでの自分の存在や役割に問題提起を投げかける存在であるといえます。

そして、ボニーとの関係性です。一見すると「“主“と“従“の関係」にも思えます。
しかし、“従“はたくさんいます。他の、バズやレックスなどのおもちゃ達です。つまり、ウッディーは新しい持ち主、ボニーにとって、「その他大勢」に格下げになってしまいます。
これまでの、ウッディは持ち主(アンディ)との関係(“主“と“従“の関係)は”従”の中で、リーダーでもあったところからも分かるように一番高いポジションでした。
しかし、現在「ボニーに必要なのは俺じゃない」と自覚しているように、役割を果たしても、“一番“という称号を得られない状態にまで下がってしまったのです。(それ以前に、ウッディ自身も、ボニーを最高の相棒に認めていませんが。)


ここで、主要キャラのストーリー上の役割を整理しておきましょう。

---------------------【物語における主要キャラの役割】----------------------
●フォーキー → 問題提起:起点(製品ではなく、手作り。おもちゃとは何か? という定義を問う存在)
●バズ → 助言:伏線(自身も「内なる声」で問題を克服する。物語の本筋へ影響を与える)
●ボー → 回答:終点(他者を満足させることによって、初めて自己定義されていたこれまでのおもちゃという役割を否定する存在)

---------------------【主従関係】---------------------
▶「アンディ」→成立。相思相愛。お互いが一番で唯一。
▶「ボニー」→非成立。非相思相愛。お互いが一番ではない、代替可能。


「“こども“と”おもちゃ“」という一見すると幼稚な対立軸のようにも思えますが、こうみると結構、各々の役割とそれに沿ったテーマしっかりと確立されているような気がします。
最も大事なことは、エンタメ作品として、これは大人目線(裏側)と子供目線(表側)の両方からも楽しめるという点だと思います。じゃなきゃ、そもそも意味がないですからね。


■ウッディの葛藤:「バズ」と「ボー」どちらを選ぶべきか?

上記な背景を背負いながら、ウッディは「おもちゃとして与えられた役割」に対し真正面に向き合い、自問自答しながらも、自分の与えられた役割を必死に遂行しようとます。ここでいう「与えられた役割」とは、「フォーキーをボニーの元に届けることでボニーの心の成長を手助けする」です。

ウッディは頑なにそれに執着します。なぜなら、それは同時にウッディにもプラスに作用し、結果として、前の持ち主であるアンディーと離別したこころの深い傷を癒すことにも繋がり、それがおもちゃとしての自分の責務であると感じていたからです。その姿は、あまりにも純粋で、愚直過ぎて、空回りし、半ば自己犠牲的にも見え痛々しいです。挙句に、その周囲から孤立さえもしてしまいます。

フォーキーの救出が成功した後、今度は、みんなの元に戻るというミッションに次は変化します。助けに来たバズ、ボー、フォーキー達と、ボニーのいたキャンピングカーに戻ろうと奮闘します。

数々の試練を乗り越え、そして、最後の別れのシーン。

このまま残るボーと、キャンピングカーに戻ろうとするバズ。

迷うウッディにバズライトイヤーが投げかけたのが「内なる声を聴け」です。

このワードは当初はギャグ要素しかありませんでした。バズは自分がピンチになったとき、迷ったときに内臓された録音の自分の決めセリフをヒントに、ラッキーで困難を克服していきます。
それが終盤になって、シリアスな演出に転換します。物語の主人公の行動を決定づけるものに変化し、まさに超重要な役割を担います。(これも上手い演出です。)

そして、ウッディはようやく自分の「内なる声」、つまり、蓋をしていた自分の本心に気づくのです。

≪アンディーは唯一無二の存在だった。今、戻っても他の誰か(ボニー)ではもはや再現できない。今まで、通り頑張っても自分も満たされないのは明白だ。次は、与えられた場所に適した役割、つまり“誰かのため”じゃなくて、“自分のため”に、“自分が本当の幸せと感じること”を探すべきではないのか?≫

子どもの頃のアンディとは相思相愛でしたが、大人になったアンディには、もはやおもちゃであるウッディからの愛情・存在では、満たせなくなり、お互いの共依存の関係が終わりました。それはアンディも自覚はしていましたが、半ば諦めていました。
しかし、その現状を打破したのが「ボー」の存在です。今度は、空白になった愛すべき対象を、今度は「ボー」という仲間にシフトし、そして歩み出したのです。

まぁ、ボーとの間に男女的な感情があるのかまでは、キスシーンもなく、明示されてませんでしたが、造形的にはありえます。しかし、物語の根幹、子供用アニメとしての観点から判断すればないと捉えた方が健全だし、作者の意図に近いと推測されます。
(でも、あった方が個人的には素敵かなとも思います、より人間性を帯びるという観点から。)


■泣き所:ウッディの苦悶が、現代人的な苦悩とオーバーラップする?

僕が泣けたなと思うのは、ウッディの葛藤する姿が、自分とオーバーラップしたからです。(「最近、つらい事でもあった?」という心配はご無用です、というか聞いちゃダメです)

誰しも、学校や会社といった集団の中で求められる社会的役割と、本当はそんなものを無視してこうありたいと願う自分の理想像との間にある、どうしようもないギャップに苦しむことがあると思います。

例えば、会社の人事でいえば、望まぬ人事異動で全然興味のない部署に異動になってしまった。これが仕事だからしょうがない、でも本当にしたいのは、これじゃない…

ウッディーの葛藤する姿は、まさにそのものではないでしょうか?
そんな姿に、僕は心打たれて泣いてしまったのです。

そして、終盤のそのシーンだけでなく、中盤でも誰にも理解されずとも、自分の信じた正義、おもちゃとしての社会的役割を愚直にこなそうとして、孤立してしまう姿にも、なにかぐっとくるものを感じました。


まとめ:みなさんの「内なる声」と共鳴するか?

何でこんなテーマを帯びた作品になってしまったのでしょうか?

憶測の範囲内ですが、本来は無生物であるおもちゃが、精巧なCGの発達でリアリティーのある「動き(外面)」を手に入れ、再現できた。そこで、今度は自我というより人間的な「心(内面)」を持たせたのかなと僕は考えています。

ウッディの決断する姿は、転職が多いこの日本社会で生きる「会社員」にさえ思えました。会社と個人の関係性、終身雇用が崩れた現代社会。永久に続く関係などない、と…。(ちょっと言い過ぎかもしれませんが)

いずれにせよ、大人の方がもっと物語の意味を理解し、そして思わず共感してしまう。そんな作品なのではないかと思いました。

トイストーリーシリーズは、視聴者と同じように時間経過をしているという点も魅力です。だから、アンディの変化と、それに伴うウッディの思考の変化などに対しても感情移入しやすいと思います。

あとは、ウッディとバズの声が、1と変わらず唐沢寿明と所ジョージというビッグネームな所も最高でしたね。おそらく『5』もあるだろうから、それ時も吹き替え版で、2人のやり取りを観たいですね。


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