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屠場跡地を歩きながら、肉食文化を考える 〜はじまりの白金と横浜〜

東京における食肉処理場の歴史は「白金」からはじまった。そのきっかけとなったのが「横浜」の肉文化だ。

今回は、江戸・東京の肉食文化が「どこから来て、どのようにはじまったのか」について、まとめたい。


◆ 白金(今里)

東京中の肉をまかなう「東京食肉市場(通称:芝浦)」は、長い歴史のなかで、都内各地にあった食肉処理場が統合してできた。そのはじまりが「白金」だ。

芝浦統合までの歴史

芝浦統合までの歴史
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東京初の食肉処理場「白金屠場」

東京で最初にできた屠場は、武蔵国荏原郡白金村今里(後の「芝白金今里町」、現在の「港区白金台二丁目」)にあった。

1867年(慶応3年):高輪東禅寺にあったイギリス公使館出入業者・横浜元町の中川屋嘉兵衛が武蔵国荏原郡白金村今里の名主堀越藤吉の地所に屠場を開設した。

Wikipedia『東京都中央卸売市場食肉市場

『港区史』を見ると、この「堀越藤吉の地所」は「白金村字猿町」にあったようだ。正確には「白金今里」よりも「白金猿町」が発祥地と言えるのかもしれない。

慶応三年(一八六七)五月、白金村字猿町に、外国人相手の牛肉納入を業としていた横浜元町の中川屋嘉兵衛が、名主堀越藤吉の邸内にあつた物置を改造して設けたもので、これが東京における私設屠場のはじまりだとされている。

港区史下巻_05』p68-69

当時は、屠畜や肉食には、かなり抵抗のある時代だった。住民からの強い反対もあったため、その後すぐに本芝(現在の港区本芝)に移転。明治2年に再び白金に戻ってきている。

何度か移転や統合、休業を繰り返しているが、明治40年頃まで、白金(今里)には、屠場があった

白金は、品川駅を挟んで、現在の「東京食肉市場」の反対側にある街だ。

白金(今里)で誕生した屠場が、長い年月をかけて、都内各地で統廃合を繰り返し、最終的には反対側の品川港南口に戻ってきた。東京の屠場史は、慶応3年から昭和11年にかけての壮大な物語だ。

なぜ「白金」だったのか

白金は、いまでいうと高級住宅街だ。食肉処理場があったとは想像がつきにくい。これまで歩いてきた屠場跡地は、ディープな街が多かった。

白金は、焼肉の名店が多い街でもあるが、ほかの屠場跡地とは、雰囲気が異なる。なぜ「白金」に、屠場をつくったのだろうか?

◎ 江戸・東京に初めて屠場をつくった「中川 嘉兵衛なかがわ かへえ

東京初の屠場を開設した「中川 嘉兵衛なかがわ かへえ」は、横浜の元町一丁目で牛肉の販売をしていた人物だ。当時の顧客「イギリス公使館」が、高輪東禅寺にあったため、白金村に支店を出していた。

イギリス公使館が求めていたのは「牛肉」だ。当時、牛肉は手に入りにくい食材だった。中川は、なんとかして牛肉を届けたいが、まだ冷蔵技術がなかった時代。横浜から江戸まで運ぶ間に肉が傷んでしまう。それなら江戸で屠牛をしようと考え、江戸に屠場をつくることを計画したのだ。

◎「白金」に決まった理由

屠場をつくる計画は、そう簡単にはいかなかった。当時は、まだ屠畜や牛肉食には、かなり抵抗のある時代。屠場のための土地を探しても、誰も土地を貸してくれなかった。

話を聞いてくれたのが、白金村の名主「堀越 藤吉ほりこし とうきち」だ。畑の一部を貸してくれることになり、中川は、ついに屠場と牛肉販売店の開設がかなった。

1867(慶応3)年5月、これが、江戸で最初の牛肉販売のはじまりだ。

「今里」が残る場所

東京初の屠場があった「今里」という地名は、統合や改変によって、現在は残っていない。この「今里」が、どの辺りなのか知る手がかりが、港区白金台にある「芝白金団地」にあった。

表札には、昔の住所が記されている。

「港区芝白金今里町」は、旧地名でいうと「武蔵国荏原郡白金村今里」。まさに、白金屠場があったエリアだ。

周辺は、肉食文化の気配がなにひとつ感じられないが、ここは確かに「今里」だったのだ。

「今」がつく名は、老舗の証

「今里」という地名は、別の形となって現代に残されている。それが、東京に残る老舗の「すき焼き店」だ。すき焼き専門店『今半』の「今」は、今里の屠場から牛肉を仕入れていたことに由来している。

浅草 すき焼き 今半本店

今里の屠場は、東京で最初にできた「政府公認の食肉市場」だ。これまでは、死んだ牛など、出所が不安な牛肉が流通することがあったため、今里で仕入れる正規ルートの牛肉は、安心・安全なブランドとなった。

江戸・東京の牛鍋店は、今里に殺到し、ここで仕入れた牛肉で大繁盛。そして、競って屋号に「今里の証」である「今」の文字を入れたのだ。

その名残で、都内の老舗すき焼き店には「今」で始まる屋号が多い。

屋号に「今」がつく、都内の老舗すき焼き店
・新橋「今朝」(明治13年創業)
・浅草「今半」(明治28年創業)
・人形町「今半」(明治28年創業)

明治時代の牛鍋ブーム

明治初期は「牛鍋」が大ブーム。牛鍋は「関東風すき焼き」のルーツとなる肉料理だ。明治6年に浅草や神田界隈74軒だった牛鍋店は、4年後には東京で、558軒までに拡大している。

仮名垣魯文かながきろぶんの滑稽小説『安愚楽鍋あぐらなべ』によると “牛鍋食わぬは開化不進奴(ひらけぬやつ)” であり、牛肉を食べることが文明開化の洗礼を受けることだった。

木村 荘平きむら しょうへい

当時、日本最大の牛鍋チェーン店「いろは」を経営していたのが、「木村 荘平きむら しょうへい」だ。

時代を先駆けた牛鍋チェーン店の1号店「いろは」を木村荘平が東京都港区に開店したのが明治14年で、死ぬまでに20数店舗開店させました。すき焼きの前身であり、いろは48店舗の展開を目ざしたフランチャイズの先駆けでした。

お肉検定2級テキスト2018 p5

木村荘平は、東京の肉食文化に影響を与えた人物だ。

東京都荒川区町屋「東京博善 町屋斎場」西棟裏庭園にある木村荘平の銅像。
火葬場経営の社長も務めていた。

江戸の馬肉文化を探れ!』でも少し触れたが、吉原(浅草千束)にあった屠場は、木村荘平に払い下げられた。その後、白金と田中町屠場(旧千束屠場)を合併し「日本家畜市場会社」を設立している。木村荘平は、官設屠場の民営化や、肉問屋組合の創設にも積極的だった。

明治26年、岩谷松平、竹中久次とともに、白金と田中町屠場(旧千束屠場)を合併し、「日本家畜市場会社」を設立。

Wikipedia「木村荘平

◆ 横浜

肉食文化において、白金と横浜は深い関係がある。
白金に初めて屠場をつくった「中川 嘉兵衛なかがわ かへえ」の経歴から、そのつながりを見てみよう。

中川嘉兵衛の経歴
・ 1866(慶応2)年から横浜の元町一丁目で牛肉の販売を始めていた(白金に屠場を開く前年のこと)
・ 当時の顧客が「高輪東禅寺にあったイギリス公使館」だったため、白金に支店をつくった

江戸・東京よりも先に、横浜は肉食文化が進んでいたようだ。

最初の屠畜は「横浜ホテル」で行われた

横浜居留地で最初の屠牛は、1860(万延元)年に行われた。白金に東京初の屠場ができた1867(慶応3)年より少し前の話だ。

居留地最初の屠牛(とぎゅう)は、1860年(万延元年)春、横浜ホテルで行われた。食肉業者の第一号はアイスラー・マーティンデル商会。

横浜開港資料館『よこはま事始め』ホテルと洋食文化

「横浜ホテル」は、オランダ人の元船長フフナーゲル(Huffnagel)が開業した、“日本で最初にできた” といわれる西洋式ホテルだ。

◎ 日本初の「横浜ホテル」

「横浜ホテル」は、1860(万延元)年から1866(慶応2)年まで存在していたが、大火事に巻き込まれ焼失。いまは跡地に、洋菓子店「横浜かをり」の本社ビルが建っている。

銘板「ホテル発祥の地」(写真左)と
洋菓子店「横浜かをり」本社ビル(写真右)

建物の正面には『ホテル発祥の地』と書かれた銘板がある。

日本初の横浜ホテルには、ビリヤード室や酒場もあった。ここから様々な西洋文化が伝わっていったようだ。

◎ 横浜の大火「豚屋火事」

横浜ホテルが巻き込まれた大火事は、豚肉料理店から出火したものだった。近くの遊郭へ燃え広がり、遊女400人以上が焼失。さらに外国人居留地や日本人町を焼き尽くし、周辺のホテルも焼けてしまった。

1866年(慶応2年)に横浜居留地で大火事「豚屋火事」がおこり、ホテルの多くは焼けてしまった。フフナーゲルの横浜ホテルも焼け、日本最初のホテルの歴史はそこで終わる。以後、横浜居留地では日本家屋の町並みが西洋風へと改められていった。

Wikipedia『横浜ホテル (横浜居留地)

旧暦の慶応2年10月20日午前9時頃、港崎遊廓みよざきゆうかくの西(現・神奈川県横浜市中区旧末広町、現在の尾上町一丁目付近)にあった豚肉料理屋鉄五郎宅から出火。港崎遊廓へ燃え広がり、遊女400人以上が焼死、更に外国人居留地や日本人町も焼き尽くし、午後10時頃鎮火した。

Wikipedia『豚屋火事

悲惨な歴史で終わってしまったが、横浜ホテルは、外国文化の受け入れ窓口として重要な役割を果たした。開港直後の横浜は、多くの商船が乗り入れ貿易で賑わっていたが、宿泊施設がなかった。オランダ人の元船長が開業した、という点からも、とても必要とされていた施設だったはずだ。

日本初の幕府公設屠場は「横浜」にできた

1865(慶応元)年には、北方村字小港(現在の横浜市中区小港町1丁目から3丁目あたり)に、日本初の幕府公設屠場ができた。

慶応元年には、外国側の要求により、幕府が北方村字小港(あざこみなと)に公設屠牛場を設けた。

横浜開港資料館『よこはま事始め』ホテルと洋食文化

開国以来、多くの外国人が暮らすようになり、横浜居留地では、食肉の需要が高まっていた。

港から伝わった肉食文化

横浜は貿易の中心港だ。港があり、海外から来た人たちが集まっていた。多くの外国人が移住し、こうした環境が、洋食文化・肉食文化の発展につながっていったと考えられる。

◎ 商船に子豚を積んで、残渣ざんさを与えて育てながら祖国へ帰る

明治時代の横浜港では、こんな話もある。ドイツ商船が祖国へ戻る際、日本で調達したいろいろな食材を詰め込んで帰る。そのときに「生きた子豚」も調達して、一緒に船に乗せて帰るのだ。

船の中で出た食べ残しや調理残渣ざんさを子豚に与えながら、ドイツまで長い船旅をする。その何カ月もの間に、子豚が大きく育つというわけだ。

肉食文化を調べていると、豚が生活の循環システムとして使われていた話が、たびたび出てくる。

雑食で、何でも食べて、短期間で成長する。繁殖力も高く、人間の生活を快適にしながら、最終的に食肉として栄養となる。日本だけでなく、海外でも。さらに、船の中でも活躍していたことに驚きだ。


肉食文化を探る旅は、まだまだ続く!

これまでは、焼肉ホルモン目線で屠場跡地を歩いてきたが、白金はガラッと変わって、西洋から入ってきた肉文化だった。焼肉ホルモンは、朝鮮半島から働きに来た人たちから伝わった食文化だが、横浜の港からは、アメリカ・イギリスから貿易で来た人たちが洋食の肉文化を伝えている。

肉食文化は奥が深い。「肉」という食材から、日本のみならず他国の文化、さまざまな歴史を読み解くことができるのだ。

これからも、肉のルーツが眠る街を歩いていく。
肉食文化を探る旅は、まだまだ続く!



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それが私の肉アノマリー

閲覧ありがとうございマルチョウ。これからもよろしくお願いシマチョウ!