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屠場跡地と周辺の産業から、肉食文化を考える

品川にある「東京都中央卸売市場食肉市場」は、東京中の肉を支える日本最大の近代食肉処理場だ。1936(昭和11)年に、この施設ができる前は、都内各地に食肉処理場があった。しかしその場所は、はっきりわからないようになっている。

今回は、肉とは直結しない話が中心だ。肉食の歴史や文化を語る上では、とても大切な話であり、これらすべてが重要な要素となっている。簡単に語ることが難しい、食肉処理場をとりまく物事について、まとめたい。


知られていない裏の産業「胞衣工場」

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ここは「胞衣(えな)工場」。産汚物の処理場だ。堕胎したものもここで処理される。「胞衣」という言葉自体、知る人はあまりいないだろう。このような施設があること自体、知られていないかもしれない。

すぐ側には「胞衣」の名を冠した、お寺のような建物もある。特殊なものを扱っているだけに、ただ作業的に処理するのではなく、古来の儀式や慣習などにも配慮しているようだ。

この施設の向かいには巨大な下水処理場、そして、かつて「三ノ輪屠場」があった場所を挟んで、少し先に「江戸三大刑場」と呼ばれる刑場跡がある。

家畜の命をいただく「食肉処理場」があった場所の周辺には、「不浄」なものや「けがらわしい」といわれるものが、集まっているのだ。

三河島水再生センター

胞衣工場の向かいには、巨大な下水処理場「三河島水再生センター」がある。その広い敷地内には「旧三河島汚水処分場喞筒場(ポンプじょう)」という、国指定重要文化財に指定されている建物がある。これは、日本で最初にできた近代下水道施設だ。

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毎年、桜やツツジの季節になると、見学会も開催され、一般の人も敷地内に入ることができる。この水処理施設の上部には、大きな公園がある。季節の花が咲きほこり、緑豊か。とにかく自然がいっぱいだ。現在は「汚くて臭い」汚水処理場という悪いイメージもなくなり、周辺住民の憩いの場所として、親しまれている。

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クリスマスの時期になると開催される「キャンドルナイト三河島」では、ポンプ場がライトアップされ、沢山のキャンドルが灯される。

「ろうそく」も、屠畜の副産物である牛脂からつくられる。このイベントも、周辺地域の産業に触れる機会となっているのだろうか。

古くから残る町工場

三河島水再生センターの周辺には、古くから残る町工場が集まるエリアがある。最初に紹介した「胞衣工場」のほか、「ろうそく」「油脂」「皮革」などの工場もある。これも、かつて近くに食肉処理場があった名残だろう。食肉処理場があった場所の周辺には、牛や豚の屠畜の副産物である「皮革」や「油脂」に関連した工場や会社が多い。

三ノ輪屠場跡

品川にある「東京食肉市場」の歴史を調べると、「白金今里、三ノ輪などの6つの屠場」から統合してできた、という話から始まる。品川に統合されるまで、都内各地にあった食肉処理場は統廃合を繰り返し、最終的に6つになった。そのひとつが「三ノ輪屠場」だ。

三ノ輪屠場は、現在の都電荒川線「三ノ輪橋駅」付近にあった。この周辺には、大鍋でつくったモツ煮込みを店先で売る、昔ながらの惣菜店もある。路地裏を歩けば、大鍋に入った真っ黒な汁で煮込んだ、串刺しのホルモン煮込みを出す酒場もある。

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ホルモンやモツ煮のルーツを感じられる店がある。これも、食肉処理場があった名残だろう。

三ノ輪屠場は、1909年(明治42年)に設立、1936年(昭和11年) 芝浦屠場に統合のため、翌年廃止となった。

図書館で見た記録によると、三ノ輪屠場が廃止になった時「隅田川駅と三河島駅から家畜が運ばれた」とも書かれていた。「隅田川駅」とは、南千住にあるJRの貨物駅のことだ。

隅田川駅

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「隅田川駅」は、貨物列車の始発・終着駅で「東京貨物ターミナル駅」と並ぶ、東京の二大貨物駅だ。この東京貨物ターミナル駅が、隅田川駅からの終着駅で「品川」にある。

東京食肉市場に統合された際、三ノ輪屠場の牛たちは、ここから品川まで、最短ルートで快適に運ばれたのだろう。

食肉処理場は、川の近くに多い

かつて三ノ輪(南千住)や浅草付近に食肉処理場があったのは、江戸時代に「風水的に鬼門の方角」だったから、という説がある。

実際のところ、肉の解体には大量の水が必要で、川のあるエリアが適切だった。それが、隅田川の近くである、三ノ輪や浅草だったともいえる。

江戸三大刑場・小塚原刑場跡

「風水的に鬼門の方角」でつながる話には、三ノ輪屠場跡から近い場所にある「小塚原刑場跡」がある。

江戸時代の刑場は、北に小塚原刑場、南に鈴ヶ森刑場(品川区南大井)、西に大和田刑場(八王子市大和田町)があり、これらが「江戸三大刑場」といわれている。

小塚原刑場跡には「首斬り地蔵」が安置されている「延命寺」と、刑死者や行路病死者の供養のために建てられた「小塚原回向院」がある。

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小塚原刑場では、計20万人近くの罪人の刑が執行され埋葬された。当時、死体は雑に土を被せて埋葬され、そのまま野ざらしにされることもあった。そのため、夏になると周辺に異臭が充満し、野犬やイタチが食い散らかして、地獄のような有様だったらしい。

現在この周辺は、マンションが立ち並び、明るい街へと再開発されているが、地面を掘り返すと人骨が出てきた、という怖い話も聞く。ここの最寄り駅である「つくばエクスプレス南千住駅」が新設された基礎工事の際(1998年頃)にも、105体の頭蓋骨が出てきたというニュースがあった。

「腑分け」と「解体新書」

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小塚原回向院には『解体新書』の扉絵がついた記念碑「観臓記念碑」もある。当時、一般的に人体の解剖は御法度だったが、ここでは特別に、刑死者の解剖である「腑分け」というものが行われていた。

蘭学者の杉田玄白、中川順庵、前野良沢らが、ここで刑死者の解剖に立ち合い、後に『解体新書』が完成した。ここは、日本の医学史に大きな功績を残した場所でもあるのだ。

泪橋

小塚原刑場跡の通りを少し進むと、泪橋の交差点に出る。現在は、橋の面影などなく、ただの大きな交差点だが、かつてここには川が流れ「泪橋」と呼ばれる橋があった。それは、小塚原刑場へ行くための橋だ。

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罪人にとってはこの世の見納めの場所であり、身内の者にとっては、処刑される者との別れの場所。それぞれが、この橋の上で泪を流したことが、名前の由来となっている。

三大刑場のひとつ、品川の「鈴ヶ森刑場跡」付近にも、同じ「泪橋」と呼ばれる橋がある。どちらも名前の由来は同じだ。

埼玉県さいたま市大宮区吉敷町にも同様の「泪橋」がある。「下原刑場跡」に、現在の「さいたま食肉市場」が開設された。

小塚原刑場跡とは反対側へ、泪橋の向こう側へ進んでみよう。

ここから先は、浅草界隈につながる。泪橋の先は、東京を代表するドヤ街「山谷」と、かつて遊郭があった「吉原」だ。この付近も食肉処理場があった場所で、肉の歴史と文化がある。

この続きは、また別の話でまとめたい。


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肉の歴史が眠る土地には、必ずうまい肉がある
それが私の肉アノマリー

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