評価型社会にもやる
上手くまとまらない…
「評価型社会」に対してモヤってる。
評価型社会なんて言葉あるのかなって調べてみた。
評価経済社会という言葉が検索にヒットした。
経済と聞くと難しいかもと感じちゃう情けない私です。経済自体が苦手というよりは経済について話す人が怖いだけかもしれないけれど。
だって生きてるだけで経済に巻きこまれてる。
仕組みはわからなくとも。
それか知れば知るほど負け戦って思い知らされそうで経済という言葉にアレルギー反応でちゃうのかも。
話を「評価」に戻すよ。
私が評価型社会にイメージするものは、
成績表
内申点
受験
査定
給料
面接
婚活
YouTube
口コミサイトのランキングやレビュー
評価は人や物の価値とは別なのに、一緒になってるのが「評価型社会」のイメージ。
評価は「価値を示すための部分的な指標」だと思う
価値に評価は含まれるが、イコールではない。
私の価値も、あなたの価値も全く分からない人もいれば、めちゃくちゃ実感してくれる人がいる。
ユニクロのエアリズムは高評価だけれど、価値が高いわけではなく、価値が高いと感じる人が多い商品。
似ているようで、違う。
これを頭に叩き込まないと簡単に自信喪失
他人軸に振り回されて決断力が弱まる
自分が「物」で、しかも沢山売れないと採算取れない物ならば「評価めっちゃ大事」
でも自分は物じゃない。
沢山の人に必要とされても応えるには限りがある。
評価されているか?に縛られすぎてないか?
逆説的だけど、評価する側からすれば評価を期待した行動では正確な評価ができない…という矛盾もはらんでいる気がする。
蛇足だけれど、熱が出て定期テストを欠席したとき、娘の学校から連絡があった。
「診断次第では見込み点の採点方法が変わります」
インフルエンザやコロナなど医師から診断されたうえで休んでる場合は加点があるのか。
なんじゃそりゃ。
みんな本人の気持ちは聞いてない。
遅刻?遅延してるなら証明を。
欠席?インフルエンザやコロナなら欠席日数にいれません。忌引きはもちろん。
なんで?休みには変わらないのに?
不可抗力には甘いんだね。
だから「私は悪くない」といえばいい、と脳に叩き込まれて大人になるのかもよ?
休んで困るのは自分
困らないのも自分
自分次第で挽回できたら、やる気もでるよ。
内申点を見直そうという動きもあるらしい。
内申点が低すぎて希望の公立高校を受けさせてもらえなかった私は個人的な恨みがある。
外国語学科に行くために必要なのは副教科の内申点だった。
先生に評価されるために提出物を出す
素直に言われたことをやる
授業は積極的に発言をする
やりたいから前のめり、ではない。
評価のポイントが変わりました
主体性を見るようになりました
授業を聞いている姿勢と参加意識を見られています
評価型社会で高評価をもらえるように
今日も私たちは生きている…
のか?
思わず高評価をつけたくなるのは感動じゃないのか?
助かった、楽しかった、嬉しかった
楽しみにしてる、頑張ってね、
が評価の成分じゃないのか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?