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過去・未来という妄想をやめて今やるべきことに集中しろ

今回の結論をまとめると、

  • 過去も未来も「妄想」でしかない

  • 妄想するヒマがあるなら、今やるべきことに集中しろ

  • 現代人は「どっちでもいいこと」に悩みすぎ

  • 悩んでないでさっさと今やるべきことに集中しろ

  • とにかく今やるべきことに集中しろ

ということになります。
これをみて、

  • 「過去も未来も妄想? どういうこと?」

  • 「自分はどっちでもいいことで悩んだりしてないし」

  • 「今やるべきってなに?」

と感じた方は続きをご覧になることをおすすめします。

今回の教養は下記の書籍を参考に執筆しています。

アルボムッレ・スマナサーラ「執着しないこと」(中経出版、2014)

https://amzn.to/3vZfVn4

著者のアルボムッレ・スマナサーラ氏はテーラワーダ仏教(上座仏教)長老であり、著書80冊以上の著述家でもあります。スリランカ出身で13歳のときに出家し、現在は日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教伝道とヴィパッサナー瞑想の指導に従事しています。

妄想に苦しむ現代人

私たちの頭のなかは、常に下記の3つで埋め尽くされています。

  • 過去のこと

  • 未来のこと

  • 今、起きていること

私たちの頭の中では常にこの3つがうごめいています。

さらに、これらを理性ではなく主観で解釈しているため、事実を自分勝手に解釈してしまう結果、「妄想」になってしまうのです。

例えば、職場の同僚や学校の友達などに言われた何気ない一言が気になり、延々と考えているうちに「自分のことを嫌っているのではないか?」と疑心暗鬼になったことはないでしょうか?

この場合、「誰かの何気ない一言」という事実から「自分は嫌われている」という妄想に発展しているのです。

記憶は妄想

このように、私たちが思い出す「記憶」というのは、実際は事実とは異なっいるのです。

「あの時、あの人は私のことが嫌いだからこういったのだ」という、主観による脚色が施され、結果的に「妄想」になってしまいます。

明確に、感情を抜いて思い出す

このように、私たちは過去のことを思い出す際は主観による脚色をするため、下手に思い出すと「妄想」になるのです。

だからこそ、仏教では過去のことを思い出すときは下記のようなアドバイスをしています。

「思い出すならば、明確に、順番で、感情を抜きにして、ありのままに思い出しなさい」

こうすることによって、記憶を脚色することなく、事実をありのままに思い出すことができるため、妄想に苦しめられることがなくなります。

妄想に振り回されるのはムダ

記憶を脚色した妄想に振り回されるのは、ハッキリ言ってムダでしかありません。

なぜならその妄想は事実とはかけ離れており、妄想するほど現実からもかけ離れていってしまうため、人生が悪循環にハマってしまうからです。

過去は存在しない

そもそも、「過去」は存在しません。

しかしこのように言うと、

「そんなことはない。過去は実際にあったことだし、思い出せるから過去はある」

と感じる方もいるかもしれません。

確かに、過去はすぐに思い出せるし、記録もできるため、なんとなく過去は存在するものだと感じますよね。

しかし、その「過去」はどこにあるのでしょうか? その「過去」を今ここに持ってくることはできるでしょうか?

このように考えると「過去」という実態は存在せず、ただの概念に過ぎないということがわかります。「過去」は私たちの記憶でしかなく、また記憶は殆どの場合、「妄想」でしかないのです。

未来に対する不安

続いて、未来に対する「妄想」を解消する方法を見ていきましょう。

私たちはいつも未来に対して不安を感じます。なぜなら、未来はわからず、誰にも知り得ないためです。

しかし、「未来」は本当に存在しているのでしょうか? 「10年後はこうなっている」という確実なことはあるでしょうか?

もちろん、ありません。
「過去」と同じように「未来」もまた存在していないのです。

ということは、「存在しない未来」についてあーだーこーだと考えることは、現実ではないことを妄想しているといえます。

つまり、未来のことを考えることも「妄想」なのです。

未来は「脳が合成した妄想」

仏教の世界では、「未来」は脳が合成した「妄想」だとしています。

そして、合成する材料となるのが「過去」です。

ここで思い出してください。前述したように、「過去」もまた主観によって事実が歪曲された「妄想」です。

つまり、「未来」は「過去」という妄想をもとにつくられた、妄想でしかありません。

時間とエネルギーを浪費しない

ここまで見てきたように、過去も未来も存在しません。

つまり、私たちは人生の貴重な時間とエネルギーを、「存在しないものについて妄想すること」に費やしているのです。

これは紛れもなく「時間とエネルギーのムダ」ではないでしょうか?

存在しない過去と未来について妄想をするよりも、私たちは「今やるべきこと」に時間とエネルギーを費やすべきです。

情報の洪水に飲み込まれる現代人

「今やるべきことに集中する」ことが大事だとわかっていても、そうはできないのが現代ですよね。

多くの現代人がストレスを抱えているのは、「いま、私は何をすればいいのか」がわからないまま生きていることが背景にあります。

現代はスマートフォンの通知がひっきりなしに鳴り、YouTubeやTwitter、InstagramなどSNSもあり、情報があふれている一方で、仕事で忙しく情報を適切に解釈する余裕もありません。

このように、膨大な情報を浴びて、それを咀嚼する余裕もない現代人は「自分はどうすればいいのか?」「なにを選択すればいいのか?」と悩むうちに、疲弊していっているのではないでしょうか。

私たちは、情報の洪水に飲み込まれているのです。

「今、何をするべきか」がわからない現代人

現代人の多くは「今、何をするべきか」がわからない状態にあります。

「今、何をするべきか」がわからないのは、情報の洪水に飲み込まれ、自分のなかに明確な基準を失ってしまっているためです。

この結果、常に「こっちの方がいいかもしれない」「こうするべきなのだろうか」と優柔不断になっています。

しかし、人生は「曖昧」では前に進めません。1分単位で「今、するべきこと」が明確になっていなければ、永遠に同じ場所で足踏みをすることになるでしょう。

「優柔不断」は人生を殺す

私たちは「優柔不断」に対してもっと毅然とした態度で挑まなければなりません。

私たちは「優柔不断」をやめて、自分の中に明確な判断基準を持つべきです。

そのためにまず知っておくべきことは、世の中の全ての物事は下記の2種類に分けられるということです。

  • イエスかノーかをハッキリさせるべきこと

  • マジでどっちでもいいこと

例えば「これはやってはいけないことだから、絶対にしてはいけない」というような判断は、悩む前に即断即決していかなければなりません。

一方で、夕飯の買い出しの際に、「キャベツを一玉買うか、半分のサイズを買うか」は、上記の2つに照らし合わせると確実に「マジでどっちでもいいこと」ですよね。

私たちは「どっちでもいいこと」も悩んでいる

しかし、私たちはこの2つを同じレベルで判断しようとしているのです。

つまり、「キャベツを一玉買うべきか…いや半玉にしておくべきか? いや、でもな…」と同じレベルの、あらゆる「マジでどうでもいいこと」に対して、真剣に悩みすぎているのです。

このような優柔不断は、人生の貴重な時間とエネルギーのムダでしかありません。

短い人生を後悔なく生きるには

よく耳にすることですが、人生は短いのです。

今、自分が死ぬときのことをリアルにイメージしてみてください。
年老いて身体を動かすのもやっとになり、病院のベッドの上で親族に見守られながら、少しずつ意識が遠のいて死に向かっていく…。

このとき、あなたは何を思いますか? 何を考えますか? 何を後悔しますか?

  • 「あぁ、もっと自分のやりたいことをやっておけばよかったなぁ…」

  • 「もっと色んなところに行っておけばよかったなぁ…」

  • 「仕事ばかりせず、もっと家族や友達との時間をつくればよかったなぁ…」

このような後悔をせずに生きるには、やはり「どっちでもいいこと」に費やす時間とエネルギーを最小限にして、本当にやりたいことや好きなことに時間とエネルギーを費やすべきでしょう。

人生は一瞬一瞬に集中して生きなければ、後悔してもしきれない人生となるかもしれません。

「どっちでもいいこと」は「どっちでもいい」

「どっちでもいいのはわかっていても、どうしても悩んでしまってすぐに決められない」

という方もいるかもしれません。

その場合、「どっちでもいいこと」に対しては、気分で決めるなりサイコロやくじ引きで決めるなり、テキトーに決めてよいのです。

なぜなら、「どっちでもいいこと」はどちらに転んでも「どっちでもいい」ため、どちらを選ぼうと結果にたいした差は生まれないためです。

「未来のことは考えなくていい」

「未来のことは考えなくていい」

仏教はこのような立場をとっています。

世の中では一般的に「将来の夢をもとう!」と言われていますが、これは仏教の教えとは異なります。そもそも前述したように、未来のことを考えるのは「妄想」でしかありません。

  • 「将来はこうなりたい」

  • 「いつかこういうことがしたい」

と思うのは、今の自分や今の環境に不満があり、その不満から目をそらしているだけなのです。

つまり、言い換えるなら「こうだったら今より楽なのに」と考えているだけ、といえます。
これは夢や希望ですらなく、ただの「怠惰」です。

夢など考えずに、今に集中する

仏教が推奨する生き方は、「将来の夢」という現実逃避をせずに、今この瞬間に集中し、今やっていることが何であろうと全力を尽くすことです。

このとき「こんなことやっていて、将来なにかの役に立つのだろうか?」などと考えてはいけません。

「将来の夢」という妄想や、過去や未来などの妄想にとらわれることなく、「今、できることをとことんやってやる」という態度で生きることが重要です。

全力で無我夢中になって今に集中していれば、不思議なことに自ずと「将来」が見えてきます。


仏教の教養」では、下記のような教養がよく見られています。

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