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ジェンダー:変わる価値観、変えらない実践

ジェンダーの研究をしていると、めまぐるしい価値観の変化に直面する。

一昔前はこれが常識、世間の当たり前とされていたことが、
今ではすっかり時代遅れ、下手をすると「セクハラ」なんて言われてやり玉に挙げられかねなかったりする。

例えば、親戚の若い人に気軽に恋人の有無を聞くこと、結婚についての話題を大っぴらにふること、今ではこれらは若い世代が眉を顰めることも多い。

さらには、結婚して、女性が名字を変えること。これは若い世代のなかでも、「当たり前」と考えている人たちと、「当たり前ではない」という人と、意見が分かれるところかもしれない。こういったグラデーションがある。

これは各自の考えと、決断によるものであるだろう。
しかし、「こうあるべき」という理想はいつも実現されるとは限らない。
意識と実際の行動の乖離という点である。

思考の上では「性別によらず○○してよいのだ」とは思っていながら、実際にはそういう選択を取れない。理念として共感はできても、自分の行動としてはそれが選択できないのである。これは意志が弱いからだろうか?

確かに意志が強ければ、考えた上でベストなことを実行できるかもしれない。しかし必ずしもそうはならないのはなぜか。

それは、やはり癖というか、知らないうちに自らのうちに蓄積され、身体化された好みであり、自分の性格を形作っている要素が対抗しているのだと思う。

わたしはなぜか花柄が好きであり、どちらかというと薄紫といったピンク系の色が好きで、いわゆる「女の子らしい」ものが似合った(自分で書くのもどうかと思うが)。それは自分が選択してきたものではなく、なんとなく気づいたらそうなっていたのである。これは押し付けられたものなのであろうか?それらが非常に女性性を強調するものであったときに、捨て去ったほうが良い要素なのだろうか?そう考えると、それらは非常に自分のアイデンティティに関わるものであり、自分を表現するものであり、簡単に変えられない好みだと気づいた。

これまでずっと続けてきた癖や習慣、ノリが、近年のジェンダー観の変化によってタブー視され、変容を迫られたときに、どうしたらよいのだろうか。

説明を聞けばわかるが、身体が、具体的な行動が追い付かないのである。
それは自分のアイデンティティについても変容を迫られているからだと思う。
試行錯誤をしながら、現実と理想のうまい妥協策を探っていくしかない。

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