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遠洋に出た春が帰ってこない・3月の写真

ぼくは夏が好きだから冬にはたいへん塞ぎ込むけども、3月になるとすごく気分がよくなってくる。暖かさの予感がある。漁に出た父親がラッコの上着を持ってもうすぐ帰ってくるような気がする。べつにぼくの父親は漁師じゃないけど…。とにかく、ほんとうはずっとずっと身近にいてほしい存在、けれど消息不明の存在が、ついに帰ってくるのではないかという高揚した予感がある。

しかしこれがなかなか帰ってこない。帰ってくる気配だけ漂わせておいて、そのじついつまでも不在なのである。ほんとに春は来るんだろうかとぼくは不安になる。春がそばにいたころの感覚は遥か彼方へと遠のいてしまった。去年の花見の写真を見たりして、春の存在のたしからしさを自分に信じ込ませようとする。でも、遠洋に出た春はほんとうに帰ってくるんだろうか。

3月はとにかく、予感と気配と不安と失望の月で、1月2月よりはましだけれど、暖かさと冷たさのあいだで心が翻弄されてしまう。ぼくは3月のあたまに新しくカメラを買った。はやく春に帰ってきてほしい。きっと帰ってくれるよね。春夏の写真をいっぱい撮って、冬になっても春を感じていたい。しかし実際のところ冬になると、ぼくは記憶にあるすべての場面が冬だったような気がしてくる。光を透かす桜と黒い枝ぶり、目をあけられないほどの太陽、熱い地面で弱ったモンキチョウも、すべて凍えるような寒さの中での出来事だった気がしてくる。冬は過去をさかのぼって雪を積もらせてしまう。




竹芝で地元民の盆踊りに遭遇した。ぼくは物陰からそれをながめた。よその祭りは物陰から眺めるのがちょうどいい。よその、と言ったって、ぼくの祭りがどこかにあるわけでもないのだが。それで、知らない人たちが踊っているのを覗き見して、ぼくはぼくの祭りをつくりたいなと思った。現実に存在しなくてもいいから、ぼくが主催する祭りをつくりたい。タイムテーブルっていうか、出し物の順番とか食べものとかも考えたい。




都営バスのこの座席はパンデミック以後封鎖されていたから、久々に開放されているのを見てうれしくなった。この席がいちばん好きだ。空いていれば必ずここに座る。運転手の仕事ぶりを感じられるし、乗ってくる人間の顔もぜんぶ見える。アクリル越しに解像度の落ちた前景もいい感じ。






ぼくは直方体が好きだからトラックもすげー好き。四角のかっこよさがこれでもかと活かされている。直方体は知性で、論理で、合理的、そして他人行儀で遠い存在。



いい匂いがする道。










お台場のヴィーナスフォートが閉館するというので、最後に散歩しに行った。小学生の頃はこの空模様の天井が夢のように衝撃的で、いつかこんな家を見つけて住みたいと思った。そのころのぼくには建築物に作り手が存在しているという発想がまるでなかったので、変な言い方だが、このような建物が新たにこの土地に自生したように感じていた。ものすごいレアな建物が勝手に生えてきた感じ。大人になった今でもそういう感覚があるかも。天井が色の変わる空だったり、室内に噴水広場があったり、こういう建物はもうあんまり生えなくなってしまった。土地が枯れつつあるんだろうか。












誕生日に母が、ぼくがずっと行きたかった海遊館に連れていってくれた。水族館がほんとうに大好き。とりわけこの海遊館の建物の構造には驚いた。「建物の中に水槽がある」んじゃなくて「水槽の中に建物がある」なのであった!小さなエイになって泳ぐ夢を見ているみたいだ。水槽の底へとゆるやかな螺旋状に降りていって、砂の中に身をうずめるエイになったみたい。

海遊館の建築について検索してみると、ケンブリッジ・セブン・アソシエイツ(Cambridge Seven Associates)という建築チームの仕事らしい。さっそく彼らの仕事を特集した雑誌とか、作品集を取り寄せた。水族館建築を代表するチームで、世界中に彼らの水族館がある。いま作品集を何度も何度も読んでるところ。それで、ぼくの水族館をかんがえたくなった。しかしこれがむずかしい。まだまだ全然考えがまとまらなくて、この空想は何年も楽しめそうだとおもう。




またね!


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