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新聞が、捨てられない

新聞が、捨てられない。

日に2度届く新聞を、積んでおくと結構な量になる。知っている。キッチンカウンター前のデスク(という機能はどこへ行ったのだろう)には新聞の山が常に崩れそうになっているからだ。
ばかじゃないかと思う。読む時間がないのなら、デジタル版にするとか、購読やめるとか、いくらでも方法があるだろう。なにより毎月5000円近くのカード払いが減るわけだし。いつまでたっても「すてきなおくさん」にはなれないし「かしこく節約」もできない。
年に何度か、この山、なんとかしなくちゃな、なんて気持ちになる。あるいはとうとう山が崩れて片づけざるをえなくなる。今回は「新聞の山に埋もれているのではないか」疑惑の探し物がきっかけだった。(結論から言うと探していた冊子は見つかりました)
まず山をどさっと床におろす。期限の切れたクーポンはがきを捨て、はさみこまれているチラシを「雑紙(ざつがみ)類」にまとめる。読み終えた「新聞紙」(しんぶんがみ)をひもかけしやすいように、まとめる。この分類だけでもそれなりにすっきりするわけだ。こまめにやってりゃいいものを。
ポストからつかんできた新聞と郵便物がこの山に積まれていくものだから、ついでに「届いてたんだぁ」なんて感慨深く定期購読誌を発見したりする。配達してくださる方にも、発送者にも、今更ながら申し訳なく思う。
山を順繰りに分けて、ざっと目を通す。気になる記事を抜き出して目を通す。全部にではない。新聞代の回収とまでは言わないが、ぴかぴかのまま資源になっていく新聞にどういう訳だかとても抵抗がある。少なくとも一度は誰か(わたし)の目に触れたのだと思えると、勝手に安心できるというとても自己中心的な発想だ。

新聞の日付が遡る。今日の日付は8月。先月の一面記事は既に「あぁそうだったな」と思う程度に昔のことになっている。そんな武器を使うことを許していいのかと憤った自分の感情さえ、他人事のように感じる。まだ数週間前の話だ。数えれば「なん日か」前の話を忘れていていいのか。このスピードについていけていない自分に、焦りを感じた頃もあった。手元に常にスマホがある生活になって以降は、その焦りさえもどこかに置いてきた気がする。
唐突に、卒業おめでとう広告が出てきたりする。3月の新聞は、怒涛の年度末業務のおかげでちっとも目を通していなかったことに改めて気づく。いや、家族の卒業入学話題がなくなってからは、この時期の話題に疎くなっている、ということか。
かと思うと新年のあいさつコラムが出てきたりする。前回の「山仕分け」の作業は年明けにしたらしく、かろうじて昨年の日付は出てこないが、1月、3月、また1月が続いて3月のあとに2月、と山の日付が行ったり来たりしているのが、わたしの中の混乱を物語っている・・・といったドラマティックなことはなく、あ、山が一度崩れて適当に積み直したことがあったな、なんていう記憶力テストになったりする。困ったもんだ。

―――部屋のテレビが某アーティストのミュージックビデオを流している。数十年前の録音音源をもとに作曲しなおしたという、あれかな、なんてことを娘がつぶやいている。今現在のアーティストと向き合うように数十年前のスタイルで歌う姿が、わたしには懐かしく、娘にはボカロ作品のようだと感じるらしい。1月の夕刊を開くと、まさにこの曲のリリース経過が記事になっていた。新聞を抜き出して娘に渡す。「こちらが曲の解説です」AIさまの成果だという。半年前の新聞が役に立つこともあるんだね、なんて、偶然性を笑った。
順に3月の日付で、もうとっくに最終回を迎えたドラマ評を読む。この日付ではこの俳優がまだ生きている。1月の日付の、気になっていた本の書評を見つける。この時から注目されていたのかとにんまり。半年前の「新刊」はまだ注文せずとも購入できるだろうか。。。
床に散乱した(もちろん山になっていた時よりたちが悪い)新聞に囲まれてわたしは少しずつ世の中の動きと、自分との、けりをつけていく。国際情勢を読み飛ばし、スポーツ記事を読み飛ばし、本の話題、そして音楽と演劇と気になる俳優の名を目が追いかけていく。たぶんわたしは気になる話題以外追いかけない。それはタイムリーにも、時間をおいてからも、変わらないのだろう。ひとつだけ言えるのはネット検索で「これ」というターゲットを追求していくのとは訳が違うということ。自分ではどうにもならない偶然性を、心のどこかで待っているということなのだろう。

新聞が、捨てられない ・・・この日本語はちょっとおかしい。
正しくは、「わたしは、新聞を捨てられない。」主語はわたしだ。でも同時に新聞は、わたしに、捨てられたくながっている。これも変な日本語だけれど、そして、そんなメルヘンなことがあるわけなかろうが、という突っ込みを自分にしつつも、お前、読まれるの、待っててくれたんだよな、と心の中でつぶやいたりする。
人とモノとの間にも、「然るべき時」は、ある。出会うべき時に出会う人がいて、モノがある。大げさだけれどそう思っていたい。
やがて「しんぶんがみ」になる新聞を、また山にしながら生活していくのだろう。それは、整理整頓できないことの言い訳にはちっともならないんだけど、ね(笑)

やっぱり、新聞が、捨てられない。


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