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『辿り着く関心』-ケアと人類学考①

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私はもともと、介護に関する専門紙の記者でした。
新聞名は『週刊 高齢者住宅新聞』。
住宅とありますが、高齢者の住まいに関わることだけではなく、介護・福祉・医療全般を扱う週刊の専門媒体です。

文章を書くのが好きだから「文章を書く人」になりたかった。
介護や福祉、住宅に興味があるわけではなかったんです。
「記者」「ライター」の職種で検索していて見つけた求人票でした。
だけどこの業界…介護・福祉・医療に足を踏み入れてみたら…それはもう、どんどん引き込まれていきました。

福祉って、そのまま“地域社会”のことじゃないか!!
わ~このケアの現場、すごく居心地がいい!!

もともと私は、地域社会、まちづくり、コミュニティ…といった言葉に深い関心を持っていました。

話は変わりますが、大学の卒業論文のテーマは高校野球、甲子園。
音楽が好きだから、中学時代は吹奏楽部に所属。中3のとき、あだち充の野球漫画『タッチ』にはまり、高校でも吹奏楽部へ入部。毎年夏、野球応援がもう楽しくて仕方ありませんでした。
テレビで観た高校野球、甲子園。
もう、感動しまくっていたんですね。
一方、思うわけです。

「なんで高校野球(甲子園)ってこんなに盛り上がるの?」「アルプススタンドが超満員てどういうこと?」「郷土愛ってなに?」…などと。

大学進学を決め、専攻を哲学か社会学かで迷っていたとき、武蔵大学社会学部(東京都練馬区)の見学会へ出かけました。4年生の先輩が「あだち充の『タッチ』は社会学することができるんだよね」と言って面白おかしく説明してくれました。

社会学とは、“当たり前を問う”学問。

武蔵大学、面白そう~!!ここなら、高校野球で卒論を書ける!!
そう。
高校3年生の時すでに、大学の卒業論文のテーマを決めていた私でした。

けれどもけれども、大学受験はあっさり失敗。
「うーむ。浪人はできないな」←単なる、意気地無し。
「ふむふむ。“転入学”という制度があるのか」←他の手立てを、調べた。

ひとまず唯一合格したR大学へ入学。2年次のとき、武蔵大学の転入学試験を受け合格。社会学部2年次へ転入する資格をゲットしたのです。
(武蔵大学の単位の仕組み上、2年次→3年次には行けないんです。つまり大学生を5年間やったわけで…。両親には感謝しています!!!)

卒論で私は、沖縄の石垣島から春夏連続で甲子園に出場した八重山商工をリアルタイムで取り上げ、甲子園はもちろん、石垣島に2週間ほど滞在してフィールドワークをしました。

ちなみに、この時滞在していた安宿で夫となる男性と出会いました。運命というか…不思議な縁です。

八重山商工を題材にしながら、地域の“盛り上がり”だとか“同じ方角を向いていく”様子”を描き出し、「甲子園、高校野球によって人は、コムニタスを体験し、自己の再活性化を果たすことができる」と結んだのです。

高校野球は、要は、「人を生き生きさせる装置」なのだと。

そして記者になり、居心地のいい現場を取材したり、施設(現場)そのものに「いい建築」を感じることができたらそれはもう、たまらない感覚になってしまうのでした。
 
人をケアしている場には、何かしらの「人を生き生きさせるもの」がある。

私はきっと、その「人を生き生きさせるもの」を知りたくて、感じたい。
そういうものが好きなのです。
好き、に理由なんてつけられない。だってそうなんだもの、としか言えないから。
私の関心の向きは「人が生きている状態」そのものなのだろうと思います。

地域社会やコミュニティ、まちづくりといった言葉にワクワクする感覚を伴ってしまうのは、そもそも、それらは“人が集まって”、人による”何らかの行為“でできていくものだから。

ひとの存在を伴った一定の大きさ(≒コミュニティ)や量(≒建築物)を伴ったときに現れるモノに何かを感じ取っている私。

“生きている”を、“空間とともに”感じられるのが、「ケアの現場」なのでしょう。

疾病や認知症を抱えた高齢者が過ごす場、生活する場だから、その設計や設えはそう単純ではないわけです。

典型的な従来型のハコモノ施設、病院みたいな、味気ない施設。多床室。
古い施設だけど、なんだかあったかみのある施設。
木造?平屋?ぼんぼり?
家みたいな、あるいはそれ以上の圧倒的心地よさのある施設。

佇まいからして、あるいは(その施設、空間に)入った瞬間に感じる場のチカラ

新人記者だった頃、毎日2施設(以上)取材するというミッションを課せられていたため、関東あちこち取材させてもらいました。
このときの経験が非常に今もためになっているのですけど、新人時代にとある建築士さん、とある人物(後に綴ります)に出会ったことから、ケアする空間、ケアに関する場の建築というものへ関心を強めて続けて今に至ります。

要するに物を作ったり、建物をつくったりビルディングをつくるのが建築じゃなくて、建築はそのまま生きることだし、存在すること。
―『建築系で生きよう』建築系ラジオ編

「建築はそのまま生きること…。うわあ…言ってくれたなぁ…」と思いました。

 “人と人が生きている状態”になまなまと触れることができるのが、福祉・ケアの現場です。
 生きている、を実感させてくれるから、そういう場が私は好きなのだと。

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ティム・インゴルドという現役の人類学者がいます。
『人類学とは何か』で彼は、「人類学とは、世界に入っていき、人々とともにする哲学」と言っています。

私が取材活動をするにあたって問い続けている【with】
インゴルドが語る“他者を真剣に受け取ることが私の言わんとする人類学の第一の原則である”との一文に出会ったとき、まさにケアの姿勢、態度だと強く感じました。

実は私の夫、介護職です。従来型の多床室の、特別養護老人ホームに勤めています。

夫が幼い娘と遊んでいる姿を見てよく感じるのは「“なりきる”のが上手だ」ってこと。
娘の世界に入りきることができる。だから楽しく一緒に遊ぶことができる。

ケアもそうですよね。何よりも“聴く”から始まる。相手の世界を知ろうとする。想像する…。

認知症あるいは障害を抱えた人の世界に入り、その人の世界、現実を理解しよう、共感しようという心持ちや態度がなければ、辛い仕事でしょうし、続けることが難しい仕事でしょう。

それはすなわち「認知症、障害のある他者を真剣に受け取る」姿勢です。

『最後の手段として人類学者を駆り立てるのは、知識を希求することではなく、気づかい(ケア)の倫理である。
私たちは、他者にカテゴリーや文脈を割り当てたり、他者を説明しつくしたりすることで他者を気づかうのではない。彼らを目の前に連れてくるときに私たちは気づかい、彼らは私たちと会話し、私たちは彼等から学ぶことができる。それが、すべての人にとって居場所がある世界を築く方法である。私たちは皆で一緒に世界を築くことができるのだ。』

このインゴルドの言葉に、私は勇気をもらえるように感じるのです。

―ともに世界を築こう。

―さまざまなケアの現場へ。

―多様な考えやまなざし、声を聴きに。「場」を学びに。

出発したいと思います。

※写真トップは、瀬戸内海の島にある、とあるデイサービス。文中写真は、私が暮らす香川県に存在する「廃材天国」。2017年4月の見学会にて。

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