定期を落とした

 私が定期入れに使っているのは、もはや手帳型というだけのスマホケースだ。

 数年前、妹がスマホを買うのと一緒に新調した端末と共についてきたものだった気がする。

 ケースの一つだけあるポケットに二枚の種類が異なる交通系ICと、大学生の頃は他のカードや交通系ICやスマホ決済したときのレシートなんかをパンパンに入れていた気がする。
 社会人になってからは、定期のICと予備のICに社員証だけを入れていた。

 尤も、最近はそのポケット自体が壊れてきたため、定期券として使っている交通系ICしか入れていなかったが。

 その定期の更新時期が近付いてきていて、内心焦っていた。学生の頃は親が定期代を出してくれていたが、今は会社から支給されている。そして、最近引っ越しを考えているのだ。

 住居が変わるのであれば会社に報告しなければならない。そして、定期区間も変わるなら、定期代としてもらっている額の調整が入る。

 例を挙げれば、半年間の定期を買って2か月後に引っ越したら4か月はその定期代は交通機関から払い戻してもらって、会社に返すか、その4か月間だけ定期代を自分で負担しなければならない。

 一回休職した身だからわかるのだが、これを知っていないと定期代という出費が思わぬところで発生することになる。休職前は交通機関に問い合わせ、定期を使わない期間分を払い戻してもらう必要があるのだ。

 私は友人と引っ越す予定もあり、定期は何か月分を買えばいいか今朝ずっと考えていた。

 今月一回は部屋を見に行こうと話している。そして引っ越すなら早い方がいい。実家は職場から離れているため、ロングスリーパーの自覚がある身としては辛い。

 電車で寝られればいいが大抵混んでいて座れない、行きも帰りも立っていることがほとんどだ。その時間に何か出来ればいいのだろうが、あいにく私の抱える眠気はそんなにかわいいものではない。
 思考は覚束ないし、会社でデスクに向かって作業をしていると思ったら夢だったことが多々ある。
 そういうときは会社の先輩に小突かれて起こされる。手を煩わせる上に仕事が進んでおらず本当に申し訳ないと毎回思う。

 しかし、最近はちゃんと早めに寝るよう努力をしている。今までしていなかったのかと言われれば返す言葉もないが。

 そのおかげか今朝はわりと調子が良かったのだ。いつもは徒歩で行く駅にICにチャージしてまでバスに乗ったから少しの間でも座ることが出来た。
 出社してから思い付きでコーヒーを飲んだ。
 会社の福利厚生で普通の客には300円ほどのコーヒーが、社員だと100円で飲める。
 私は今の会社に入社するまでコーヒーのことをコーヒー好きの友人の前ですら泥水と呼んでいたし、高校生のとき大抵の喫茶店で一番安価なのがコーヒーで気に食わなかった。一度安いからとコーヒーを飲もうとしてみたことがある。しかし、いくらミルクやシュガーを入れても苦いものは苦いのだ。

 最終的に飲み干せたのかすら覚えていない。友人はその哀れな液体に「もはやコーヒーじゃない」といっていた気がする。

 普段は高くても紅茶かココアを頼む。高校生だった自分にはそれらとコーヒーの差額たった100円が惜しかったから、飲めたらいいと思ったのだ。

 比べて会社のコーヒーは他のコーヒーと明らかに違うものだった。自分が安いものを飲んでから飲まず嫌いだったといえばそれまでだが、入社初日に薦められてたった100円だからいいやと思って飲んだら飲めたのだ。シュガー1ミルク1のアイスコーヒーだった。

 このとき、定期を落とすとわかっていれば、今朝のコーヒーは交通系ICで支払ったし、なんなら高めのカフェモカを頼んだだろう。

 残高は低く見積もっても700円ほどあったのだ。

 それなのに今朝の自分はキャッシュレス決済用の機器を見てバスでチャージしたことが脳内に過りながらも律義に現金で支払った。

 落としたことに気が付いたのは、帰りの電車だった。乗換駅、ふと手帳型を開くとそこにいるはずのものがいなかった。

 スマホのポケットはもはやハリボテで自分が今履いているズボンなんかについているやつは最初から入れないだけましだなと現実逃避した。
 本来カードを支えるための場所がびりびりに破け、横からも下からも貫通してすり抜けていく。ずいぶん前からわかっていた。買い替えなければいけないと。

 使い続けたのは愛着などではない。怠惰だ。

 iPhoneであればスマホカバーは公式からそうでないもの、旧型から最新型までコンビニですら売っている。
 対してAndroidは機種が多い分そのメーカーが出しているものでないとぴったり合わず、吸着式やシール式のものを使うことになる。
 しかもこの携帯端末の市場はコロコロ移り変わる。数年前買ったやつのカバーを探すよりもう新しい端末を買った方が早い。

 公式通販サイトにあればそれでいいが、なければそれまでだ。

 そんなことを今回の定期更新のように先送りにしていた。一応今日更新するつもりで昼休み銀行に行っていたのだ。

 とりあえず3か月分買ってしまおうと思っていた。ちなみに更新する前に落とした。
 そこは唯一幸いなところだ。

 落としたと気付いた瞬間、電車を降りてすぐに来た道を辿った。そして見当たらないことを確認して窓口へ行った。

 普段から会社ではあまり喋らないが、今日はデスクの両端の先輩方が休みだったことと上司がいなかったこともあって蚊が鳴くより小さい声だった自信がある。

 ついさっきの落し物が届いているはずもなく、どうすればいいか聞いたところ、「とりあえず定期区間最終の駅まで行って再発行の手続きをして今日のところは普通に切符の代金を支払ってくれ」と言われた。

 言われた通りに最寄り駅で手続きを済ませ、「今日の分」を聞けば「いいよいいよそんくらい」と言われた。

 家までの帰り道、いろいろなことを思い返していた。今日は一度も眠らずにずっと作業していたこと、コーヒーを飲んだからカフェインが効いたのではないかという考察、寒い中歩いていて吐き気が出てきたが交通系ICは1枚しか持ち歩いていなかったためバスに乗れないこと、ぐえっとせりあがってくる胃酸を押し返しながら、なぜ自分が吐き気をもよおすようになったのか思い返した。

 診断されたわけではないので憶測にすぎないが、原因は長きに渡る食べ過ぎとリス食いだ。
 リス食いは一気に口に詰めて頬張ることで、幼いころよく食べる父がやっていたのを真似してやりながら食べたら家族に「たくさん食べるね」といわれ、何を勘違いしたのか。
 当時、目立っていることでしか自己肯定を出来なかった私は人より多く食べ、多く飲むようになった。

 私の人生はいわゆる普通ではないが、姉を見るとまるで普通の人のような暮らしをしている。思い返せば家族がどうこう以前に私はおかしかった。
 姉が友達と話す中、私はずっと考え事をしていた。それは雲の形や空の色のことだったり、学習漫画で見た知識を思い返していたり、絵本の中に入ったらどうなるだろうといった子供らしい空想や疑問の思考だった。

 同年代の友人にその話をしてもわけがわからないという顔をされたし、私は自分の世界で十分だったので他人に話すことはあまりなかった。
 仕事であまり帰ってこない父に考えたうえでわからなかった疑問ぶつけることはあった。そのたびに、「その疑問が出るということはある程度理解出来ているのか」と感心された。
 父に関心されるのは誇らしかったが、目立つこと、注目を集めることほど自己を肯定できるわけではなかった。

 母は聞いても答えてくれないか、忙しいから構っている時間はないと言われた。
 当時、すぐ思ったことを口に出していたため、母が家事をしていようが、趣味をしていようが、他人と話していようがお構いなしだったので厄介者扱いはある意味当然といえる。

 過去のことを思い出しながら、吐き気をこらえていると胃が鳴った。久々に腹が減ると胃が収縮運動を始めるのだと思い出した。
 少なくともここ数か月は足元がふら付き始めて、イライラしてくるのを空腹のサインだと認識していた。

 そんなことはなかったのだと思って歩みを進めてもずっと腹が鳴っている。胃の辺りがキュッとするのを感じた。それと同時に吐き気もましになっていった。

 家は特別暖かいわけではない。布団があって暖房もあるが廊下は冷えているし、私は寒さにも暑さにも鈍感なので暖房も冷房もあまりつけない。

 家族4人が暮らしているにしては冷えた家だ。

 夕飯を食べて、部屋に戻るとスマホが鳴った。出ると乗換の駅からだった。定期が届けられた旨、預かるのは明日までだから身分証を持って取りに来てくれといわれた。
 もう定期再発行の手続きをしてしまったというと「でも残金がありますよ」と言われた。
 どうやらコーヒー代は帰ってきたらしい。
風呂に入りながら今日のことをまた思い返していた。今日のコーヒーは何か違和感があった。
 飲めるのだがいつもと違った。といってもカフェインを摂らないようにしていたため、いつもといってもかなり前なのだが。

 そこでようやく思いいたった。今日私が注文したのはホットコーヒーだ。アイスコーヒーと違って中身が見えない器に入る。

 そして入るシュガーも変わる。シロップではなく粉砂糖になるはずだ。

 久々で忘れていたが、コーヒーを頼むと砂糖とミルクの量を聞かれるが今日はそれがなかった。
 蓋を開けたとき、コーヒーは黒かった。いつもは何も言わなくてもミルクが入れられているが、初めて見る店員だったから新人のバイトだったのかもしれない。

 私が飲んだのはブラックコーヒーだったのかもしれない。粉砂糖が解け切っていれば飲み終わったあと何もなかったことの説明になるが、今日のコーヒーはいつもより飲みづらくて最後は流し込むように飲んだ気がする。

 そして後味を感じてこれが酸味というやつか、と納得していた。

 それがわかっただけで今日は良い1日だったのではないかと思えた。
 定期を落として再発行に2000円かかるとしても。その定期が残り数日分だったとしても大したことではない。

 あれだけ飲めなかった液体が飲めたのだ。
 私の中では明日休日にも関わらず出かける用事が出来たことよりそちらが重要だった。

 自分でもよくわからないが。

 こんな風に睡眠時間を削って長文を綴るくらいにはテンションが上がっているのだ。

 今日は定期を落とした。でも、間違いなく良い日だった。

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