龍と出逢いに その5 ィイ・ヤシロ・チ㉝
最近、復興された龍神の社があると聞いて、心がピリリと反応した、水無月。
それは淡路島の東海岸沿いにいとも簡単にお参りできる道沿いに在った。あまりにも容易に見つかり、駐車場も完備され、神前に立つまでに急な坂道や高い石段や細い獣道があるわけでもなく、こんなに簡単に詣でられていいのですか?と拍子抜けするほどの参拝楽勝のお社だった。
その名も安乎岩戸信龍神社(あこいわんどしんりゅうじんじゃ)。こちらには龍の伝説があるという。昔、小さな神様と龍が一緒に暮らしていた岩戸。龍がお使いにでかけている間に、人間が神様を連れ出して別の社にお祀りしてしまい、事情を知らない龍は、その後もずっと神様が戻ってくるのを待っている、という切ないお話だ。なんと、そのまま龍のいる岩戸はかなり荒れてしまっていたのを、ここ最近に復興されたそうな。
わたくしと友人らは、その話を聞いて、夏至参りにその龍神さんに会いに行こうと計画した。今年の夏至は、なぜだか龍神に災害消除のお願い詣でをという気持ちが膨らんで、それに賛同する四人で淡路島に向かったのだった。
安乎岩戸信龍神社はその夏至の淡路島龍神参りの二社目のお社。岩戸の中に入って社殿に龍神祝詞を唱えてお参りした後、帰路につこうと振り返ると、神様の帰還を待つ龍神さんが目にする外界を見る格好になるのだ。其処には岩戸の前の空と太平洋が淡路島の形に切り取られて、不思議な光が祠の中に届く光景があった。
この日、厚い雨雲の広がる空模様ではあったけれど、車を降りてのお参りタイムにはなぜだか雨は小降りになるか、止んだ。いつものごとく水加減の微調整が徹底されたイヤシロチ巡りに、全員が有り難いねーと喜んだ。安乎岩戸信龍神社でも、洗われた緑が縁取る明かり取りのような上部の大穴からきれいな光まで注ぎ込んできた。
その不思議な色合いを認めると同時に、わたくしの思考は、待つことの淋しさと、待つことが育てる「心の力」について向かっていった。今の世は、待つことをとても厭う。何か知りたければ、すぐさまググって情報を得ることはもちろん、人との待ち合わせに行き違いや待ちぼうけは、ほとんど無くなった。欲しいものは、カードで本当の支払いよりも先に手に入れられる。スピーディーやらパフォーマンスやら、そういうものがやたらと持てはやされている。結果や効果を急いで得ることも、当然のように思われている。
けれども、先を楽しみに待つ、試行錯誤のぐるぐるの時間が思いもよらぬ結末をもたらす意外さ、寄り道や偶然の出会いの巡り合わせの妙に感動するなどなど、待たないことで失ったのは、心の栄養になるものばかりのようだ。「待てば海路の日和あり」なんて楽観的なのんびりモードは、その意味を本当に実感することさえも難しくなっているのでは?
我慢ばかりじゃ辛いけれども、待つことの効用も人の仔には、成長の糧になる。お酒がゆっくりと熟成されるように、良いものは待つ時間をたっぷりと必要とするのだ。そして、先の展開を信じて明るく期待するマインドは、きっと苦境を乗り越える時の力になるはず。
わたくしの敬愛する哲学者、鷺田清一氏の著書にもそのテーマに関連するものがあった。
待つことに関する哲学的なアプローチは、日本語の豊穣な言語世界の中で縦横無尽に思考を展開していく。それを読むわたくしは、日本語を母国語として生まれた幸いに感謝するのだ。「待つこと」は、これほどに人の仔の心に多くの大事なものを与えうるのだ。であるならば、待ち続けた龍神さんにはどれほどの神威が培われたであろうか?
実は、此処の龍神さんが白龍だったことも併せてみると、一つ、わたくしは、どうにも不思議なモノを参拝当日の早朝に目撃していた。↓
朝6時ごろ11階のマンションのベランダに立って、天気の具合を確認中、ふと見下ろした眼前の川の流れに、見慣れない長い白いものを発見した。(↓右上部分 なかなか見えづらい汗)
急いでベランダの柵に寄ってスマホで写真を撮り、拡大して確認した。どう見ても白い魚体である。しかも相当に大きい。近くにいたシロサギを尾ひれで巻き上げた水しぶきで威嚇しているのも見えたので、わたくしが寝ぼけたのではないと思う。なんだろ?アレは?妙な感覚でしばらく観察していたけれど、今日はお参りなので、慌てて出発の準備に取り掛かった。
そのことを、思い出して、またしても例のごとく、わたくしの妄想が続いて再開する。
わたくしと友人らの夏至参りを楽しみにしているよと、わざわざ魚に化身して、我が住まいする目前の川面にお出ましになった?白龍様。そのような奇しき御業を発揮されるほどまでに神力がみなぎっているのは、純粋な心で神様を待ったことの成果かも知れない。長い待ち時間が、龍神の力を勁く鍛え、そして高めたのか。そのパワーに感応した人の仔たちも社を復興し、次々と参拝者が訪れ、益々の崇敬を捧げるようになり、より力強くなられたのだろうか?整備された岩戸の内部も、参道も掲示物もゆったりとした駐車場も崇敬者の篤信が集まればこそだろう。
今では年に一度、安乎岩戸信龍神社に、八幡神社に遷った小さな神様が、お祭りのお神輿に乗って龍神さんに会いに来られる巡幸があるそうだ。
きっとその時は、きれいに整えられた岩戸の中に海からと天からの光を受けて、長い時を待ち続けた白龍様がその力を大きく放ちながら、神様の来訪を明るく出迎えているに違いない、などと想像をたくましくするわたくしである。
夏至参りのわたくしたちは、その後の予定も安全に進み、メンバー一同、楽しく心豊かな参拝旅を無事に終えることができたのは、言うまでもないことである。神恩と友情に大感謝の、ありがたい夏至詣で。どちらも時間をかけて、じっくりと育てた心。互いに信じて待つことで得られる、貴重な賜物だ。そして、それらをこれからもたゆまず大切にしていくことも、人の仔の幸せに必要なことだろう。待ち続けた龍神さんの物語からわたくしが学び得たことである。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。和風慶雲。
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