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#016 気づき

2024年1月1日。
朝、目が覚めて、一つの気づきがあった。
おそらく、昨日落とした未来への一雫によって、脳裏に静かな波紋が広がったのだろう。

心に鎧をまとい、感情に蓋をする。
ぼくはいつのまにか、そうやって生きてきていた。
なぜなら、そうしないと心が壊れてしまいそうだったから。
そうやって、自分を守らないと生きていけないと思っていた。

だけど。
この鎧も蓋も、自分の中で自然に湧き起こる意思の動きに無理矢理方向づけをすることでもある。

この「無理やりの方向づけ」という概念がぼんやりと頭の中に漂っていたのだが、
ふとした折に「中動態の世界(著者:國分功一郎)」に書かれているカツアゲの論理がフラッシュバックしてきた。

カツアゲされてお金を出す被害者は、強引にお金を奪われたのではなく、自分の手で自分のお金を取り出して渡す。
この出来事を能動/受動のフレームで考えると、被害者は自分の「手」でお金を渡しているので、自分の「意思」もまた能動的であると言えてしまう。

これは、現代では中動態の概念が能動態の中に吸収されてしまい意識されることがないから、思考することは意思することだと考えると同時に、その思考そのものが(意思という)行為だと考えてしまうからだ。

だから、「だって、自分で渡したんでしょ?」というように自己責任論・自業自得論に帰着してしまう。

でも、このロジックはしっくりこない。
やっぱり、思考そのものが(意思という)行為だという部分がしっくりしないのだ。
これは、自分の心身をちゃんと観察してみれば、わかる。
ややこしいのだが、この事象には「行為の能動性」はあっても「意思の能動性」はないのが、わかる。

このしっくりしない部分が能動態の中に吸収されて意識されてはないが、心の奥底で心の下敷きになっている中動態という構成要素なのだと、ぼくは思う。

では、このロジックを("手を動かす"という)物質的な行為ではなく("心に鎧をまとい、感情に蓋をする"という)抽象的な行為に適用してみるとどうなるか。

この場合、鎧も蓋も、他者による強制ではないから「意思の能動性」はある。
でも、この意思は(そのように能動的に)意思する思考そのものに蓋をするという受動的な行為を入れ子構造的に伴っている。
それゆえ、その行為自体はすでに、自分の意思を無理やり方向づけるという「行為の受動性」を強く帯びている。

これはつまり、この事象には「意思の能動性」はあっても「行為の能動性」はない、ということ。
ただ、この場合の行為とは物質的行為ではなく、意思の方向づけという抽象的行為であることに注意が必要だ。

意思に能動性がない場合、心の奥底にある中動態の芽が「しっくりしなさ」を訴えてくるのだが、このような(意思の方向づけという抽象的)行為に能動性がない場合もまた、この行為を意思と勘違いして、「しっくりしなさ」を訴えてくるような脳構造があるように思える。
つまり、「"意思を無理矢理方向づける抽象的行為"という意思」というように、行為が意思に転換されてしまうということ。

この勘違いの結果、
"受動性を伴うような抽象的行為が現れる前提となった"意思は能動的であるにも関わらず、その意思もまた(行為と同様に)能動性がないと思考してしまう。
そうして、心の奥底にある中動態の世界が「しっくりしなさ」という誤作動を起こす。

この誤作動が起こっている時、思考上のぼくは「能動性のない抽象的行為」には、中動態の世界がないと感じているのだ。

まさに、この時。
言語が自分の意志を超えて、思考を制御しているのが実感される。
意思の介在しない状態を表す文法表現である中動態に対するある種の信仰が芽生えているのを感じるのだ。
國分さんのスピノザOS論を拝借すれば、行為の方向性に囚われるあまり、行為の質に対しての視野が霞んだとも言える。

この時、ぼくの脳内で起こっている論理構造を言語化してみる。

1.中動態とは状態を示す文法表現である。
2.その状態とは、意思と行為の双方において無意識の能動性を帯びている状態である。
3.そして、この行為とは物質的行為だけでなく抽象的行為も含みうる。
4.よって、抽象的行為であっても受動性を帯びている場合は、それは中動態的ではない。
5.中動態的ではないということは、自然な状態ではない。
6.故に、能動性のない抽象的行為には中動態の世界がない。

というわけだ。

この中動態という概念は、色々な思考に触れるたびにその本質に帰着するように思える。だからぼくは、この中動態の世界という思考フレームに過度の期待をしていたとも言える。それゆえ、この誤作動は起こったと思う。

しかも。
中道性は、能動性の部分集合であるにもかかわらず、能動性の上位概念であるかのように錯覚している。
そしてそれと同時に、自分が中動態的であることが本当に自然であることだと、強く思うようになると同時に、その状態を強く望むようになった。

なぜなら、鎧も蓋も、自分を守るという行為であったから。
それを、不自然であると思いたかったから。
鎧も蓋も、本来はしたくなんてないから。
心が壊れるような環境なんて、ほんとうは嫌だから。

だから。
武装しているんだということを意識することで、
自分の心が壊れるのを守りたかった。



ここまでが、気づきの前提。


ぼくは、或る人と言葉のやりとりをしてきた。
最初は、交わし合う言葉にすれ違う要素が見つからないことに喜びを感じた。
そのうち、交わし合う言葉にわずかなズレを感じるようになった。
そして、そのわずかなズレについて、また膨大な言葉を交換しあった。
やがて、どんな些細なことであっても、お互いにそれをやり過ごすこともなく、膨大な言葉を費してなぞり合った。
そんなことを1年半ほどしていた。

最初は目に見えるようなわかりやすいズレが、どんどんと細分化されて微細になっていくに従って、ぼくはぼくの自然性すなわち自分が中動態的であることを強く求めるようになっていった。

それは時折、彼女の能動的意思を感じつつも、行為の能動性が感じられない時すらもズレと捉えるような誤作動を伴った。
それはつまり、
自然に気持ちが溢れること、自然に行為することにこだわりすぎて、意思を追い越した行為の能動性に受動性を感じてしまい、それを否定的に受け取ってしまうということ。

先のカツアゲ論になぞらえれば、
「抽象的行為の受動性/意思の能動性」
という構図にも、同じように否定性を感じていたということ。

そしてこう感じるのは、
ぼくの大きな特性の一つである「言語過敏」ゆえでもあると気づいた。

言語過敏という発作が起きている時、
僕の思考は、行為の前提にある「意思の能動性」よりも「抽象的行為の受動性」の方に過敏に反応している。
そこが自然発生的ではないことは、極端に言えば「やりたくないけど、いやいややっている」というカツアゲの論理と同じじゃないかという思考として帰着してしまう。


それは、先に述べたように中動態への信仰的意識もさることながら、抽象的行為の受動性に対して、意思そのものとの区別がつきにくいからでもあると言える。
だから、行為の受動を意思の受動と取り違えやすいと言える。

でも、これも。
自分の心身をしっかり観察してみれば、わかる。

「行為の能動/意思の受動」と「行為の受動/意思の能動」は、全くの別物。
そして、中動的であるとは、
「行為の能動/意思の能動」だけでなく、後者の「行為の受動/意思の能動」も含まれる。それは即ち、どんな行為であっても、意思に裏付けされた行為であればそれは意思の現れである、ということ。

そんな気づきが、新しい年の始まりの朝に訪れたのでした。

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