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#012 境界と手応え


何かの問いに対して答えを見出すという目的的思考構造は
脳にプリセットされている仕組み

そんなストーリー理解を欲する脳構造ゆえに、
人は目的を欲するのかもしれないけれども

そもそも、
「目的」という概念がなければ
「答え」を見出すという思考も生まれないのかもしれないと ふと思い

そして、
「答え」という概念がなければ
「問い」という思考も生まれないのかもしれないなと、とみに思う

とすると、
「目的」を欲するという思考を満たすために、「答え」という概念が作られたのかも知れないな というところまで辿り着く

この欲求を満たすためには、
答えが一回性のものだと大変だ
何度も何度も
答えなるものを生み出さなくちゃならないから

だから、
答えを繰り返し生産するために、脳は「問答」という思考システムを作り出したのかもしれないな

答えが欲しいから
問いが生まれる

いうなれば、
「問い」と「答え」はマッチポンプ


この理屈だと、答えなき問いは存在しないことになるけれども
これはまさに理屈の世界
答えのない問いなんてごまんとある

それに、そもそも
実際の世界には、問いも答えもないのだ

しかし、ひとはなぜだか「何故」を考える
考えたがる
ほら、今もこうして言葉を使って思考している限り
トートロジーの井戸の中


なぜ、
なぜを考えるのか
それはきっと、答えが欲しいのではない、
手応えが欲しいのだと思う

じゃあ、
手応えってどんなものだろうか


人は服を着ることで、自分という身体の境界を認識するという
自分の身体の境界線を感じることで、自分の存在を実感し安心するのだという
この境界というのが手応えなのだと、ぼくは思う

そして、身体の手応えを認識するということと
自分の心の輪郭を感じるということは、
本質的には同質だと、ぼくは思う

そして、
この輪郭を感じるセンサーが言葉なのだろう
言葉によって想いの輪郭線が描かれた時、
心は手応えを感じるのだろう

つまり、
言葉とは自分の輪郭もつくるし、
相手の輪郭もつくる

境界と手応えそのものなのだ
放たれた瞬間から、世界の構成要素になるのだ


だからぼくは、言語過敏なのだ

切りつけるような言葉に触れると
身体の境界線がモヤモヤと歪むのだ
切りつけるような言葉を放ってしまったとき
心の輪郭がヒリヒリと痛むのだ


伝達手段としての言葉の機能性は素晴らしい
問いを発することも答えを求めることもできる
そしてそれはとても大切なこと

でも本質としての言葉は、
問いを発するためのものでも、なく
答えを求めるためのものでも、ない

言葉を届ける相手の
その心の輪郭をなぞる
想いの筆先のようなものだと思うのです


だからこそ、ぼくは。
言葉を大事に、丁寧に、使いたいと思うのだ

だから、みんなが。
言葉を大事に、丁寧に、使ったらいいなと夢みるのだ


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