自分と他人の問題を混同して悩んでしまうときはゆるりと切り離す、それだけでいい。
仕事とプライベートのどちらも自分と他人の問題を混同して悩んでしまうときほど苦しいものはない。傾聴、共感することはできても問題を解決するのは本人である。
そして、問題を抱えている本人が解決しようとしていないのに、他人が解決しようとすると、お互いに傷付いてボロボロになってしまうものだ。
私は医師ではないが、患者様やご家族様に病気や加齢による障害と回復過程の予後予測について説明することがある。受傷前と近いレベルまで回復をする場合もあれば、そうでない場合もある。1回の説明で理解される方もいれば、「このままだと症状が悪化して最悪の場合は・・・。」と説明しても理解されない方もいる。
専門用語を噛み砕いて、画像や模型を使い、現状の機能レベルとそれに伴う対応を説明するのだが、どうしても理解してもらえない場合がある。
「元にもどるんですね。」
私の説明が悪かったのか、選んだことばが専門的だっただろうか、説明が長すぎたのだろうか、理解してご本人に対応してもらわなければ最悪の場合は命の危険すらあるのに!!なぜ!?
どうしよう。私の説明が下手なせいだ、私が悪い、私が信頼されていないからだ、何が間違っていたのか・・・わからない。私の説明で理解してもらえない場合、医師からの説明なら納得してもらえる場合がある。
しかし、医師からのインフォームドコンセントでも、私の説明のときと同じような患者様の反応を見て、やっと理解することができた。
「私の説明の問題ではなく、その人自身の障害受容が回復への期待の段階だったのだ。」
ナンシー・コーンの提唱したステージ理論は障害後の心理的回復過程をショック、回復への期待、悲哀、防衛、適用の五段階としている。
障害受容の段階が「回復への期待」にある人にはどんな職種からの説明だって、言語理解はできても心が受け入れる準備ができていないのだ。どんなことばの中からも回復への望みを探し出す。障害受容の段階に合わせた接し方があるはずなのに、入院期間を逆算して、これまでにはこういう状態にもっていかなければという方法が間違っていた。
想定した反応が返ってこない場合、方法を変えてどんな反応が返ってくるか試行錯誤するものだが、どうしても私は「方法」と「自分」を切り離して考えられない癖がある。「方法」が間違っているから上手くいかないだけなのに、「自分」が悪いのだと思考停止してしまう。もちろん、そう考えてしまう私の思考が悪いのだが、自分を責めたところで何も変えられることはできない。
他人の問題を「私がなんとかしなきゃ!!」と頑張ってみたところで苦しいだけだ。
仕事関係、友人、家族、恋人・・・自分と他人の問題を混同して悩んでしまうときはゆるりと切り離す。ただ、それだけ。
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