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友人と話して気づいたこと。

重度障害を持つ子供を2人育てている友人と、子供が学校に行っている間の数時間を使ってランチに行ったりサウナに行ったりした。

友人の日常の話を聞きながら、「こうしたら?あぁしたら?」とついつい物を言ってしまう自分がいて、それに気づいて嫌になることがある。

友人は毎日を自分なりに納得しながら生活している。
それに対して先を心配してアレコレ言うのは私のワガママだし失礼な事だなぁと思って、
「ごめ〜〜ん。勝手に心配して言い過ぎとる。私よりあんたの方がよっぽどしっかりしとるし、地に足がついとるわ。ごめんね〜」
と言ったら、
「心配してくれる人がいるのはありがたいことだわ。」
と言ってくれた。

***

私はユニバーサルデザインをファッションでやりたくて、専門学校卒業後、一時期障害者支援施設でお手伝い(というか居候)をさせてもらっていた時期がある。
その場にいればなにか役立つデザインができるんじゃないかと思っていたけど、なにもすることができず挫折して、ただオジャマだけさせてもらった感じだった。

重度障害のある我が子が地元で普通に生活していけるような施設を作るためにお母さんがたが奮闘して、実際に障害者支援施設を作るまでのドキュメンタリー映画を私が主催して上映会をした事もあった。

自分自身が幼少期に持病で入院・手術した経験があり、障害者やその人たちが生活する場や衣類に対して何か役に立ちたいと思っていたこともあって、いろいろな事をしたりいろんな人に会ったりした時期があった。

だけど、

コロナのことだけじゃなく、ヘルパーやら、家族のことやら…。
社会的弱者と言われる人たちには、私には実感がなかなかできない切実な悩みや問題が日常的に横たわっている。
それをほんの少し見聞きしただけでわかったように口出しはできないし、だからと言って知らない、見えないと言っていてもいけないし。

友人と話しながら、むずかしいなぁ、と思った。

「私は100%障害者やその家族の側でサポートしたい人間だ。」と過去は思っていたけど、いやいや、「なるべくサポートしたいと思っている人間だ。」というだけで、そんなにがっつりサポートできる人間ではなかったんだなぁ。
ということに今頃になって気づいてしまった。

そんなことも正直に友人に話したら、「うんうん、そうだね。」と受け止めてくれて、やっぱり友人はしっかりしてるなぁと思った。

友人は学生時代からずっと変わらずいい友達で、まずはそういう存在としてお互い居続けることが「普通」ってことだろうな。

と思った。

過去の私は1か100か、やるかやらないか、すきかきらいか、で物事を捉えていたけど、その都度その都度で手伝えることは手伝う、「ゆるやかにつながる」でいいんだよね、ということみたいだ。

私は社会に出てから20年ほどずっと社会人として生きていくために、仕事をするために、気を張っていたんだということを実感した。
1か100かで人付き合いしていたらそりゃ疲れるよなぁ。

「たった1度の人生だから挑戦しろって人は言うけど、たった1度の人生なんだから何もしないでもいいじゃんね。」
という友人の言葉を大事にしたい。

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