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幻想生物1.夢魔/真夜中のナイチンゲール

 夢の中で、真夜(まや)は幼い頃に戻っていた。淡いピンク色の地に、濃いピンクや明るい黄色の桜の花が散りばめられた着物を着て、背もたれのついたふかふかの椅子に座っていた。頭に挿したかんざしの、金色の針のような垂れ飾りが、頭を動かす度にシャラシャラと音を立てて、真夜の視界の端にちらついた。
 隣には、落ち着いた黄緑色に赤やオレンジの菊の花が描かれた振り袖を着た、四つ年上の姉の真冬が立っていた。正面を見ると、大きなカメラの向こうから、見知らぬおじさん が、作り笑いを浮かべて手を振っている。
 これ、七五三かな。自由にならない身体でそんなことを考えながら、真夜はぼんやりと目の前の光景を眺めていた。カメラマンの背後で撮影の様子を眺めていた父方の祖母が、心底嬉しそうににこにこして言った。
『二人とも、かわいいわね。着物も似合っていて』
 実際、祖母が真夜たちのために誂えてくれたこれらの着物はとてもきれいだった。特に黄緑色の着物は、母に似て色白できれいな黒い髪と目をした、目鼻立ちのはっきりした真冬にはよく似合って、通りすがりの見知らぬ人にまで褒めそやされたほどだった。
 真夜も七歳のときにこの着物を着てみたが、姉に比べ父親似の日本人顔であった真夜にはあまり似合わず、姉からさんざんにけなされたのを今でも覚えている。
 そんなことを想い起しているうちに、写真の撮影は終わってしまった。自力で椅子から降りることのできない真夜を抱き上げながら、父が真夜に笑いかけて言った。
『きれいに撮ってもらえてよかったね、まひる』

* * *

 目覚めると、けたたましい目覚まし時計の音が部屋中に鳴り響いていた。しばらくの間、真夜はぼんやりと天井を見上げたまま、今見た夢のことを思い返していた。
「真夜、いつまで寝てるの。早く起きないと学校に遅刻するわよ!」
 階下から、母の甲高い声が聞こえてきた。慌てて起き上り、時計のアラームを止めて時刻を見ると、本来起きていなければならない時刻をとうに過ぎていた。大急ぎで階下へ降り、洗面台で顔を洗い歯を磨き、再び二階へととって返し、制服に着替える。
 鞄を手に居間へ入ると、食卓には、いつものとおり二人分の朝食と、真夜の弁当だけが用意されていた。昨日も、姉は家に帰って来なかったらしい。台所で忙しく動き回る母をちょっと見てから、真夜は食卓についた。今朝のメニューは、豆腐の味噌汁と、炊きたてのご飯。おかずは、ベーコン付きの目玉焼きと、ホウレンソウの胡麻和えだった。
 朝食を大急ぎで食べ終えた後、真夜は駅まで全力で自転車を漕いだ。ほとんど滑りこむように、いつも乗る電車の何本か後に出る電車に乗り込むことができた。この分では、日課にしている合唱部の朝練習には参加できそうになかった。衣替えも間近のこの時期、朝から体中汗でびっしょりになってしまった。
 あの夢のせいだ、と、真夜は心の中で独りごちた。中学二年生にあがったこの春からときおり見るようになった夢だった。最初は、真夜が生まれたときの場面、その次は、家でベビーベッドの中、またその次は…といった具合に、見る度少しずつその場面は変わって行くけれど、どれも必ず、夢の中の大人たちは、自分のことを「まや」ではなく「まひる」と呼ぶのだ。
 もしも、夢の中の自分が今の自分に追いついたら、その先は一体どうなるのだろう。こんなものは、たかが夢だ。しかし真夜にとっては、少しずつ、自分のこれまでの人生を誰かにとって代わられていくような心地がして、気味が悪かった。
 ため息を吐いてから、人でぎゅうぎゅうの電車の中を見まわした。たった数本違うだけで、こんなに人の量が違うのかと目を丸くしていると、ふと、一人の少女の姿が目に留まった。真夜と同じ、中高一貫の私立紅陽女子学園の制服を着たその少女のことを、真夜は知っていた。
 実際に話をしたことはほとんどなかったけれど、何をするでもないのに、なんとなく目立つ、というタイプの子だった。少し赤みがかった焦げ茶髪の髪の毛と明るい茶色をした目は、生まれつきなのだという。真夜自身どちらかといえば色素の薄い方でそれをよくからかわれていたせいか、中学校の入学式で彼女の姿を見かけたとき、とても印象に残ったのだ。
 真夜が彼女のことを見ていると、彼女と同じ小学校からあがったという、真夜より名簿で一つ後の子が、色々と教えてくれた。彼女のお母さんはなにやら怪しげな仕事をしている、なんて噂があることも、そのとき知った。その後、一年生のときに委員会が一緒になったとき、彼女にシャーペンを一本貸したことがあるきりだった。
 やがて電車は学校の最寄り駅へと着き、ほとんど人の群れに流されるようにして真夜は改札までたどり着いた。駅を出てあたりを見回したけれど、もうすでにあの少女の姿はなかった。
 その三日後、また夢を見た。今度は、初めて幼稚園へ登園して、みんなの前で自己紹介をしているところだった。この夢の中でも、先生やまわりの子たちはみんな、真夜のことを「まひる」と呼んだ。しかし何よりも驚いたのは、真夜自身が自分のことを「まひる」と呼んだことだった。

* * *

 数日後、部活を終えて家へと帰り着いた真夜は、自分の家の玄関がおもむろに開き、中から人が出てきたのでびっくりした。普段この時間、家には誰もいないはずだ。中から出てきた人物の顔をよく見ると、それは姉の真冬だった。真夜は思わず近くの電柱の陰に隠れ、様子を伺った。
 大きな鞄を肩に提げた真冬は、特にあたりに気を使う様子もなく、何食わぬ顔で家を出て、真夜の隠れた方とは反対の方向へと歩き去ってしまった。恐らく、着替えをとりに来たのだろう。姉が歩き去ったのを確認してから、真夜は家の玄関へと駆け込んだ。
 姉の真冬は、高校へ上がってからもうずっと、家にはほとんど寄りつかなくなっていた。母の説明によると、中学生の頃から付き合いだした一つ年上の彼氏の家や、友だちの家を泊まり歩いているそうだ。
 姉の真冬は、子どもの頃から近所でも評判の美人で、人見知りの激しい真夜と違い友だちも沢山いた。父が色々な面であまやかし過ぎ(これは真夜の主観ではなく母が言っていたこと)を除けば、中学校の始め頃までは、特に自ら問題を起こすような子ではなかった。
 それが突然、中学三年になったころから変わり始めた。それまで付き合っていた子とは、違うタイプの子たちと付き合い始めたのだ。三年前、近所に住む父方の祖父母が相次いで亡くなったことも、その原因のひとつかもしれなかった。
 新しい仲間に誘われるままアルバイトを始めたのはいいが、そこで問題を起こしては、いくつもの店を点々としていた。どうやら今の仲間と一緒になって、万引きや夜遊びもしているようだった。随分前に、家の居間で堂々とタバコを吸っていたこともあったし、「肌が白くなる薬だよ」と得体の知れない粉を真夜に渡してきたこともあった(気持ち悪くて全部すぐに捨てたけど)。
 もっともそれまでに、真夜は小学生の頃から、姉に色々なことをされたりさせられたりしてきていた。姉のその変化に対しても、たまたまその対象が自分から、親やまわりの人間に変わっただけとしか感じられなかった。それまで付き合っていた子から受けた仕打ちを、全部真夜にやり返していたのだと、今ならわかる。
 もともと仲の良かった子も、気が合って付き合っていたというよりも、たまたま母のママ友の子どもで仕方なく付き合っていた部分が大きかった。今では母もそのママ友と縁を切って、当時姉がその子に「いじめられていた」ことに気付いていたのに、見て見ぬ振りをしていた、ということも認めている。もっともその理由については、「自分が独りになるのが怖かったから」ではなく「あの人が独りなのが可哀そうだったから」だと未だに言い張り続けているけれど。
 居間に入ると、タバコの臭いが部屋中に漂っているのがわかった。食卓に置かれた灰皿の中に、吸いさしのタバコが一本入っているのを真夜は見止めた。こんなものを母が見たら、また飛び上がるだろう。それを捨て、灰皿を洗いながら、そういえばお父さんもヘビースモーカーだったっけ、と真夜はふと思い出した。
 真夜の父は、ある会社で研究職の仕事をしている。もともと忙しくてほとんど顔を合わせる機会はなかったけれど、ここ一年ほどはずっと、「単身赴任」だと母からきかされていた。しかし、実は今も同じ街に住んでいることを真夜は知っていた。
 休みの日に友だちと出かけたとき、知らない女の人と腕を組んで歩いているのをたまたま見かけたことがあった。学校の友だちに父の顔を知っている子はいなかったから、幸い誰にも気付かれなかったけれど。そのことを、真夜は母に言えずにいた。
 母も父と似たような仕事をしていてた。帰りはいつも夜の九時過ぎで、土日もほとんど家にはいなかった。たまに家に居ても、口から出てくるのは、真冬や父が家に帰って来ないことに関する愚痴や、仕事や近所づきあいでたまった不満ばかりだったから、あまり一緒にいたくはなかったけれど。
 風呂からあがった真夜は、居間のテレビを点けた。ソファに横たわって、見るともなしにテレビの画面を見つめていた真夜は、ふと、こういうのを「家族が崩壊した家庭」っていうのかな、と思い至った。
 ドラマやマンガの主人公だったら、「世の中なんてくだらない」と言いながら、タバコの一本もふかしているところかもしれない。それなのに、自分は酒にもタバコにも手を出さず、ちゃんと宿題をして、毎日学校へ遅刻もせずに通っている。あたしってなんて真面目なんだろう。などと自分で自分を褒めてみても、虚しいだけだった。
 その夜も、また例の夢を見た。今度は、幼稚園のお遊戯会の場面で、やっぱりみんな真夜のことを「まひる」と呼んでいた。
 いっそのこと、その「まひる」って子にこんな人生全部押しつけてしまいたい。目覚めた真夜が真っ先に思ったのは、それだけだった。

* * *

 次の日の朝、真夜はあまり話したことのないクラスメートに声を掛けられた。原静流という、図書委員の子だった。
「垣崎さん、最近一カ月の間にうちの学校の図書館で、本借りた?」
 思いがけない質問に真夜は怪訝に思いながら首を振った。
「ううん。最後に借りたの、一年の夏休み前だったと思うけど」
 真夜のこの返答に、少女は首を傾げながら、そっか、とだけ応えた。その後ちょっとためらってからこう続けた。
「実はこの前、図書委員会で、夏休みの長期貸出前の蔵書確認したんだ。それで、期限過ぎても返してない人をチェックしたんだけど。その中に、垣崎さんの学生番号で一か月前から、本を一冊借りっぱなしにしてる人がいたの」
 とっさに、真夜は夢のことを想い起して、ぎくりとした。できるだけ表情に出さないよう気をつけながら、ばかばかしい質問だとはおもいつつ、真夜は恐る恐る尋ねた。
「なんて名前?」
「それがね…」
 歯切れの悪い物言いで言い淀んだ後、彼女の口から出てきた返答は、真夜の予想通りのものだった。
「カキザキマヒル、っての。なんか、気持ち悪い冗談みたいでしょ」
 その日は一日中、授業にも部活にも身が入らなかった。さっきからずっと上の空で、声も出ていないし、もっとみんなに合わせて、とさんざんパートリーダーの三年生に叱られてしまった。仲のいい子は、自分以外みんな徒歩や自転車圏内の子ばかりだったので、真夜は落ち込んだまま、独り駅のホームで帰りの電車を待っていた。
 今朝聞いた話が、ずっと頭の中でぐるぐると回っていた。きっとたちの悪いいたずらだよね、と原さんは言っていたけれど、夢のことを知る真夜には、それを単なるいたずらだとは思えなかった。いつか自分は、その「まひる」って子にとって代わられるのだろうか。そう思うと、胃のあたりがきゅっと縮まるような感覚に襲われた。
 駅のホームに人はまばらで、仕事帰りらしいサラリーマンや、学生らしい私服姿の男女のグループ、風呂敷包みを抱えた着物姿の中年女性、後は赤ちゃんを連れた女の人、などがぽつぽつと電車を待っているばかりだった。そのとき、改札とホームとをつなぐ階段から、真夜と同じ制服姿の少女が姿を現した。見ると、それは先日電車の中で見かけたあの少女だった。
 ふいに、その少女に声を掛けたい衝動に真夜は駆られた。しかし、その後すぐに電車が来て、それははばまれてしまった。
 電車の中はこの時間帯にしては珍しく空いていて、かろうじて座ることができた。その直後に隣の車両と繋がるドアが開いて、あの少女が姿を現した。少女はしばらく、車両の中を見渡した後、真夜の真向かいにあった唯一の空席を見つけると、まっすぐにこちらへやってきて、真夜の正面に座った。
 声を掛けようと思ったけれど、肝心の少女の名前を思い出せなかった。彼女の方からも声を掛けてこないということは、きっと彼女の方も、自分のことを忘れているのだろう。そう思うと、さきほどまでの気持は急にしぼんでしまった。ひとつ先の駅で停車した後、行き違い列車の待ち合わせで数分間止まる、という旨のアナウンスが入った。
 しばらくすると、やがて、向かい側の席に座っていた女の人の抱く赤ん坊がむずかり始めた。母親らしい女の人が懸命に赤ちゃんをあやしたけれど、あまり効果はなく、とうとう赤ん坊は大きな声で泣き出した。
 人がいっぱいの電車の中で、ほとんどの人は見て見ぬふりをしていたけれど、一人か二人、あからさまに不愉快そうな顔をしてみせたり、舌打ちをする人がいた。母親らしい女性はすっかり困った様子だった。
 そのとき、その女性の隣に座っていた例の少女が、その赤ん坊連れの方に向き直った。何人かの人が怪訝な顔で少女を見やったが、少女は構わず母親に断ってから赤ん坊の手を取った。古めかしい節の、不思議な歌詞の唄を小さな声でうたい出して、赤ん坊の固く握られたこぶしを器用に開いていく。
 さらに少女が、開いた赤ん坊の手のひらの上に、人差し指でくるくると円を描いていると、それまでけたたましく鳴き叫んでいた赤ん坊の声が、少しずつ弱まっていった。やがて、泣くのを忘れたように、きょとんとした顔で、自分の手を取る少女の顔を一心に見つめ始めた。そのうちに唄が終わりに近づくと、少女は手を止め、赤ん坊の手のひらの上に、ふっと息を吹きかけた。
 赤ん坊はすっかり泣き止んで、母親らしい女性が、小さな声で少女に、ありがとうございます、というのが聞こえた。その直後に電車が動き出し、何駅か過ぎた頃、真夜の家の最寄り駅にたどり着いた。改札を出て駅の方を振り返りながら、彼女の母親のやっているあやしげな仕事って、いったいなんだろう、とふと気になった。
 その夜も、また例の夢を見た。今度は小学校の入学式の場面だった。「カキザキマヒルさん」と呼ばれ、元気よく返事をして入学証書を受け取る自分を内側から眺めながら、自分はいったい何者なんだろう、とぼんやりと考えていた。

* * *

 その週の日曜日、真夜は家の二階にある衣裳部屋にいた。明日から衣替えのため、夏物のベストとスカート、それにシャツを準備するためだった。ベストとスカートはクローゼットからすぐに見つかったけれど、ブラウスだけがなかなか見つけられなかった。何段も引き出しをひっくり返して、ようやく見つけたとき、ブラウスと一緒に、何か手帳のようなものが出てきた。見ると、それは二冊の母子手帳だった。
 その一冊には、「垣崎真冬」と書いてあった。それを何の気なしに手にとって中身をぱらぱらとめくってみると、色んなことが書かれていた。あの母も、これを持って病院に通いながら、父と一緒に、産まれてくる子どものことを待ち遠しく思っていた頃があったのだろうか、と、妙にしんみりした気持になった。
 真冬の手帳を閉じて、もとあった場所に仕舞い込んだ真夜は、落ちているもう一冊の母子手帳に目をやった。おそらく、こちらは真夜のものだろう。
 しかし、その表紙に書かれた名前を見て、真夜は自分の目を疑った。手帳の表紙には、はっきりと「垣崎真昼」と書きこまれていたのだ。一瞬、背筋に冷たいものが走って、真夜はその場から逃げ出したくなった。
 震える手でその母子手帳を手に取り表紙をめくる。その中に書きこまれた出生日時や血液型は、まぎれもなく真夜のものだった。慌てて手帳の入っていた引き出しを探ったが、最初に出てきた二冊の外に母子手帳らしきものは見当たらなかった。
 そのときふと、背後に視線を感じて真夜は振り向いた。見ると、先ほどスカートとベストとを取り出したクローゼットの扉が開いたままになっていた。その扉の内側には鏡が張られている。
 その鏡の中に、二人の少女の姿が見えた。一方は、しゃがみ込んだまま鏡の方へと振り向いている真夜、そしてもう一人は、まるで鏡の中からこちらを向いているように見える女の子だった。鏡の中の少女の方が、わずかに色白で髪や目の色も明るいように見えたけれど、顔は真夜と瓜二つだった。言葉を失ったまま、真夜は茫然として鏡に見入った。
 すると、鏡の中の女の子が口を開いた。声は聞こえなかったけれど、その口の動きが、真夜にはこう言っているように見えた。
『かえして』
 叫び声を上げながら、スカートもブラウスも放り出して、真夜は無我夢中で衣裳部屋から飛び出した。帰って来た後、とり散らかったままの衣裳部屋を見た母に大目玉をくらったが、母の怒りよりもあの少女の方がずっと真夜には恐ろしかった。母子手帳のことも、鏡の中の少女のことも、真夜は母に黙っていた。
 その後、自分に生まれて間もなく亡くなった双子の姉妹でもいないかと母に尋ねてみた。しかし怪訝な顔で首を傾げてみせられただけだった。それからしばらく、衣裳部屋には入れなかった。
 その夜も、真夜はあの夢を見た。今度は小学校三年生での運動会の場面だった。夢の中で、真夜はやっぱり「まひる」と呼ばれていた。そして、夢の中で奇妙なことがおこった。
 夢の中の短距離走では、真夜が一等賞を取っていた。しかし実際にはこのとき、真夜は途中で転んでビリになったはずだ。今でもその傷跡が膝に残っているので、間違いなかった。夢でも間違えることがあるのか、と真夜はぼんやりと思った。

* * *

 翌日、学校でさらに奇妙なことがあった。突然、他所のクラスの仲の良い子から、覚えのない音楽CDを渡されたのだ。真夜がきょとんとしてその子の顔を見つめ返すと、相手も戸惑ったような顔をしながらこう言った。
「このCD、先月あんたから借りたやつじゃん。ほんとは先週までに返すって約束してたのに、あたしが返すの忘れてたんだよ。覚えてないの?」
「あたし知らないよ。この人の歌、聴かないし」
 変だなあ、という友人の呟きを聞きながら、何の気なしにジャケットの裏面を見た真夜は、ぎょっとした。裏面には、誰が持ち主かわかるようにするためか、親指ほどの大きさのシールが貼ってあった。見覚えのあるウサギのキャラクータが描かれたシールだ。このシールは、親戚のお姉さんがくれた非売品のシールで、真夜は小学生の頃彼女からこれをもらった。それからしばらくは、自分の持ち物全てにこのシールを貼って、その片隅に「まや」と書きこんでいたのだ。
 よく見ると、そのCDに貼りつけられたシールの片隅には、ほんの小さな字で「まひる」と書きこまれていた。真夜は慌てて友人に言った。
「ごめん、忘れてた。そうだそうだ、これ、あたしのだ」
「なんだ、やっぱり。もう、自分の持ち物くらい覚えててよ。…って、返すの忘れてたあたしが言うことじゃないけど。それじゃ、次うち移動教室だから、もう行くね」
 そう言って、友人は自分の教室へ帰って行った。友人が帰って行った後、真夜はあらめてCDを見た。自分の趣味とはまったく違う作風の歌手のCDだったけれど、貼りつけられているシールも、そこに書きこまれた文字も、どう見ても自分のものだった。いっそのこと、知らないと言い張って突き返してもよかったのかもしれない。ひょっとしたら彼女のほかの友だちに、同じシールを持つ「まひる」って子がいないとも限らないのだから。
 薄気味悪く思いながら、真夜はCDを、鞄の奥へ隠すように仕舞った。とうとう、ここまできたか。そんな思いが頭をよぎった。
 その日の帰り、駅のホームのベンチに座って電車を待っていた真夜は、あの少女と再び出くわした。どうしても名前が思い出せないあの少女のことが、自分はどうしてこんなにも気にかかるのだろう、と心の中で自問したけれど、答えは出なかった。
 少女はしばらくきょろきょろとホームを見渡した後、真夜の隣にある空席を見つけたらしく、まっすぐに真夜のそばまでやってきてそのまま座った。
 するとほんのかすかに、香水らしい、つんとした匂いが真夜の鼻をくすぐった。その瞬間、真夜は少女の名前を思い出し、はっとして思わず声を上げた。
「柳川さん?」
 柳川小夜、というのが、彼女の名前だった。名前を呼ばれた少女ははっとして、真夜の顔を見やった。あきらかに自分の顔も名前も覚えていないらしい少女の様子にちょっとだけひるんだが、真夜は構わず言葉を続けた。
「柳川さんでしょ。あたし、一年生のとき委員会で一緒だった、垣崎真夜。覚えてる?」
 しばらく呆けたような顔をした後、柳川小夜は、あ、と短く声を上げた。
「垣崎さん…。確か、一年D組だったけ?」
 その言葉に、真夜はほっとして頷いて見せた。それからしばらくは、あたりさわりのない世間話をした。今まであまり話したことはなく、噂やその雰囲気からなんとなく、怖い人なのだろうかと思っていたが、その予想はみごとに裏切られた。今まで知り合った誰と話したときよりも話しやすくて、互いに後から後から言葉が出てくるのだ。いつまででも話し続けられるような気がした。
 盛り上がってきたところで、突然真夜のお腹が大きな音を立てた。思わず耳まで真っ赤になりながら、今日はお弁当があんまり食べられなくて、ともごもごと真夜は言い訳を始めた。実際、ここ数日で立て続けに起こった奇妙なできごとのために、食事もまともに喉を通らないような日が続いていた。柳川小夜はおもむろに鞄から小さな包みを取り出して真夜に差し出した。
「これどうぞ」
 見ると、それは誰かの手作りらしいクッキーだった。柳川小夜は袋の口を縛っていた黄緑色のリボンをほどくと、自分の口に一枚入れてから、真夜の前に差し出した。
「今日友だちからもらったんだ。誕生日が近い彼氏へのプレゼントの、練習だって。ここ最近ずっともらい続けてて、あんまり食べる気がおきなくなってきてたとこなの」
 真夜は一瞬ためらったが、袋の中から漂ってきたクッキーの匂いに食欲をそそられ、思わずその中から一枚取り出し、頬張った。甘くて香ばしいジンジャークッキーの味が口の中に広がって、真夜は思わず呟いた。
「おいしい」
「ほんと、よかった。好きなだけ食べて」
 柳川小夜はにこにこと笑いながらそう言った。真夜はもう一枚クッキーを袋から取り出した。おしゃれなバラの形にくり抜かれたクッキーは優しい味で、なんだか懐かしかった。久しぶりに、なにかを食べておいしいと感じた瞬間だった。
 クッキーを頬張りながら、真夜は言った。
「よかったあ、話しかけて。…実はあたしね、ずっと前から、柳川さんと話してみたいなって思ってたんだ」
 すると柳川小夜は、えっと短く声を上げた後、驚いた様子で真夜を見つめ返した。
「あたしと…?垣崎さんって、変わってるね」
「そう、かなぁ」
 こんなに存在感のある子なら、きっとみんな話したがるんじゃないかな、と思ったが、なんとなくやぶ蛇になりそうな気がして、黙々とクッキーを口に運んだ真夜であった。
 どうやら彼女の方は、本当に友人の手作りクッキーに飽き始めているらしく、別れ際に袋ごと手渡された。真夜は少しためらった後、ありがたくそれを受け取った。ただし、大嫌いな黄緑色のリボンだけは、丁寧にほどいて柳川小夜に渡した。
「悪いけど、黄緑色嫌いなの。これだけは、柳川さん、もらってくれない?」
 その夜も、真夜はあの夢を見た。今度は小学校の卒業式の場面だった。ほとんど真夜の記憶と同じものだったけれど、たったひとつ、記憶とは違うところがあった。それは、真夜—あるいは「まひる」—の履くスカートの色だ。真夜の記憶では、大好きな紺色とこげ茶色に黄色のラインが入ったタータンチェックのスカートを履いていたはずなのに、夢の中では、それが水色とグレー、そして大嫌いな黄緑色のラインに変わっていた。

* * *

 ゴールデンウィークも明け、前期の中間試験も間近に迫って来たある日、家に帰って来た真夜は、玄関先に見知らぬ高校生らしい男女数人が立っているのを見止めて思わず立ち止った。髪を染めて、耳や鼻にピアスを開けて、少し離れたところに立つ真夜のところまで、恐らくは彼らの服にしみついたものらしいタバコの臭いが届いてくる。間違いなく、真冬の「友だち」だった。
 彼らが立ち去るまでしばらくその辺を歩いてこよう。そう思って踵を返そうとした真夜の腕を、誰かが突然掴んだ。ぎょっとして振り向くと、真夜が気付いたのとは違う、でも似たような格好をした男の人が後ろに立っていた。
「きみ、もしかして真冬の妹さん?わー、そっくり」
 タバコのヤニくささと、きつい香水の香りとが、混ざり合ったにおいが鼻について、真夜は思わず顔をしかめた。なんとなくろれつの回らない物言いや、焦点の合わない目、しまりのない笑い方、それらがやけに不気味で、真夜は髪の毛が逆立つような感覚を覚えた。動転して何も言えずにいると、その男の背後から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「やだ、真夜じゃん。ちょっとアツシ、やめてあげてよ。その子真面目なんだから。怖がっちゃうよ」
 いつもどおりの、笑いを含んだ、人を小馬鹿にするような物言いは気に入らなかったけれど、姉のその言葉は、そのときの真夜には天の助けに思えた。
「そんなのわかんないじゃん。ね、真夜ちゃんって言うんだ。君も俺らと遊ぶ?」
 なんとか相手の腕を振りほどき、真夜は声を絞り出した。
「いえ、いいです。あたし、宿題やらなきゃ」
「ワタシシュクダイヤラナキャ、だって、わー真面目」
 オウム返しに言われ、自分が耳まで真っ赤になるのを真夜は感じた。
「失礼します」
 なんとかそれだけ言うと、真夜は玄関へと駆け込み、震える手で鍵を閉めた。
 その夜帰って来た母は、目ざとく真冬が帰って来たことに気がついた。そして、あからさまに不機嫌になった。
「まったく、うちの連中はそろいもそろってコソコソと。みんな自分のことばっかりで、私がこんなに頑張ってるのに、誰もわかってくれないんだから。前世でよっぽど悪いことでもしたのかしらね」
 母の小言が始まったのに気がついて、真夜はそっと居間から抜け出し、自分の寝室へと向かった。
 父が家に寄りつかないのも、姉が問題ばかり起こすのも、母の中では、自分には一切責任がなく、「誰かのせい」ということになっているらしかった。
 健気な娘ならこういうとき、「お母さんがかわいそう」なんて思いながら、しっかり愚痴に付き合ってあげるのかもしれない。実際に、少し前まではそうしていた。けれど、少なくとも今の真夜にそんな心のゆとりはなかった。
 その夜の夢は、中学校の入学式の場面だった。不思議なことに、夢の中の真夜—まひる—は、あの柳川小夜という少女に目もくれなかった。
 視界の端にちらりと映ったきり、夢の中の自分は、同じクラスになった少女たちと、ずっと他愛のない話に興じていた。その会話の中で、自分がこういうのが聞こえた。
『あたし、紺色ってきらいなんだよね。黄緑色が好きなの』
 なんだかこの頃夢が変だな、と思いながら、どうすることもできないまま、真夜は現実へと引き戻された。
 それから数日の間は、この不気味な夢を見ることもなく、平穏な日々が過ぎて行った。この夢と関係のありそうな出来事といえば、ある日の体育の授業で、点呼のときに教諭が真夜のことを「カキザキマヒル」と呼んだことと、母が一度だけ、真夜のことを「マヒル」と呼んだことくらいだった。
 けれども、そのどちらも、真夜が訂正すると、あっさり間違いを認めて言い直してくれたので、真夜はあまり気にしないようにしていた。
 そのうちに前期の中間試験も終わり、何ごともなく六月を迎えた。

* * *

 異変はある日突然起こった。ある朝目が覚めて、出かける支度を整えてから居間へ入ると、食卓には母の分の朝食しかなかった。近頃愚痴を聞こうとしなかったことに対する当てつけだろうかと危ぶみながら恐る恐る母に尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「なに言ってるの。あんたさっき食べてたじゃない。まだ足りないなら、遠回しなこと言ってないでそう言いなさい」
 憮然として、真夜は母の顔を見つめ返した。しかし母は、真夜が自分をかついでいるのだと決めつけているらしく、不機嫌なまま真夜の分の朝食を用意して言った。
「二度も片付けるの面倒だから、終わったら今度は自分で片付けてよ」
 理不尽な扱いに腹立たしい気持になりながらも、真夜は朝食を平らげた。食器類の後片付けをしてから、母に行ってきますと声を掛けて玄関へと向かう。
「行ってらっしゃい、まひる。車に気をつけるんですよ」
 自分の背中に投げつけられたこの言葉に、真夜は頭から冷や水を掛けられたような心地がした。思わず振り返って、母に言った。
「お母さん。あたしの名前は、マヒルじゃなくて、マヤだよ!」
 すると、母が怪訝な顔をして言った。
「あんたね、ふざけるのもいい加減にして。あんたの名前は、マヤじゃなくてマヒルでしょう。今日はどうしたの、熱でもあるの。それとも、私に対するあてこすりのつもり?」
 母のこの言葉に、真夜は目の前が真っ暗になったような気がした。頭からさっと血の気が引いて、めまいがするのを感じながら、真夜はふと、自分が鞄も何も持たないまま家を出ようとしているのに気がついた。忘れたのかと思ったけれど、居間にも玄関にも、自分の部屋にも、どこにも鞄は見当たらなかった。間違いなく今朝、鞄の中に今日必要な教科書やノートを入れた記憶があるのにも関わらず。
 ほとんど混乱した頭のまま、電車の定期が鞄の中に入っていることも忘れて、真夜はいつも電車を乗り降りする駅へと向かった。不思議なことに、気がつくといつの間にか、真夜は学校にたどり着いて、自分の席に座っていた。
 どうやら自分は近くの席の子たちと話し込んでいたらしかった。今は何時限目だろうか、と真夜は思い出そうとしたけれど、頭の中がぼやけた感じで、結局よくはわからなかった。そのとき突然、前の席の子が真夜に話しかけてきた。
「そういえばさ、昨日のあの番組。モデルのRが観客席にいて、何秒間か映ってたらしいよ。あたし見逃しちゃった。マヒルは見た?あんたあのモデル好きだから、すぐにわかったんじゃない」
 クラスメイトが口にしたモデルは、真夜には全く興味のない人物だった。その問いに返答をする気力もないまま、真夜は相手の顔を見返した。
 幸いその直後に次の授業の担当教諭が教室へ入ってきたため、返事をする必要はなくなった。ふとノートに目を落とした真夜は、そこに覚えのない、けれども間違いなく自分の筆跡で描かれた落がきをいくつも見つけ、溜息を吐くことしかできなかった。

* * *

 その日は一日中、誰もが真夜のことを「マヒル」と呼び、真夜には興味のない話題や、真夜には覚えのないことについて、まるで興味のあること、やったことのように話し掛けられて戸惑うばかりだった。始めは新手の嫌がらせかとも疑ったけれど、そのうちに、みんなが真夜のことを、本当に「まひる」という名前の、真夜とは好みの違う、真夜とは少し違ったテンポで動く少女だと信じ込んでいるらしいことがわかってきた。
 もしかしたら、記憶違いをしているのは自分の方なのではないか。自分は頭がおかしくなって、自分のことを真夜という名前の、違う性格の少女だと思い込んでいるだけなのではないか。そんな気がし始めていた。
 その日は部活に出る気が起きず、腹痛を理由に部活をサボってしまった。まだ帰宅ラッシュには少し早い時刻だった。人気のない駅の、プラットホームのベンチに腰掛けて、真夜はぼうっとしていた。すると、不意に後ろから声を掛けられた。
「垣崎さん、久しぶり」
 知らんふりをしようかと思ったけれど、その声の主に気付いた瞬間、真夜はすぐさま振り向いた。見ると、真夜の後ろに柳川小夜が立っていた。力のない笑顔しか浮かべることができないまま、真夜は呟くように言った。
「柳川さん、久しぶり」
「小夜でいいよ。どうしたの、なんか疲れてるみたい」
 なんでもない、と言い掛けてから、真夜はふと思いついて、小夜に尋ねてみた。
「柳川さん、あたしの名前、なんていうか知ってる?」
「なあに、突然。垣崎さんでしょ」
「そうじゃないの。苗字じゃなくって、フルネーム」
 柳川小夜はきょとんとして、真夜の顔をじっと見つめた。祈るような気持ちで、真夜は相手を見つめ返した。彼女の、少し険があるが整った顔に、一瞬不信感とも不快感ともつかないものが現れたが、すぐに消えた。そして、困ったような笑顔を浮かべながら、少女は答えた。
「垣崎真夜、でしょ。ほんとうに、どうしたの。…あ、そうそう。垣崎さんじゃなくて、真夜って呼んでもいい?カキザキサンって、いつも言いながら噛みそうになるんだよね。マヤって名前の子、ほかに知らないし、かわいい名前だなあって思ってたんだ。名前に同じ字が入ってるのも、なんか面白かったし。さっきも言ったけど、あたしのことも小夜でいいからね」
 彼女のこの返答に、真夜は天から差した一条の救いの光を見た気がして、思わず小夜の腕を掴んだ。
「そうだよね!あたしの名前は、マヒルじゃなくて、マヤだよね!ありがとう、ありがとう、柳川さん」
 あっけにとられた様子で、小夜は真夜の顔を見詰めたまま真顔で言った。
「ほんとうに、なにかあったの?前も言おうか迷ったんだけど。なんだか顔色も悪いし、まるで夢魔かなにかに取りつかれた人みたい。前よりもひどくなってる」
「“ムマ”って、なあに」
 聞いたことのない言葉に、真夜は思わず訊き返した。
「西洋の妖怪。狙った人間の夢の中に夜な夜な現れて、気持ちいい夢を見せるんだけど。その隙に少しずつ、その人間の生気—エネルギーとか命みたいなものね—を吸いとって、最後には殺しちゃうんだって」
 真夜ははっとして、人目も気にせず、ほとんど叫び声に近い声を上げた。
「それだ!それだよ!あいつは夢魔なんだ」
「なにそれ、どうこと?」
 問い詰めるような口調の小夜に、真夜はちょっとだけびっくりしたが、思い切ってことの次第を洗いざらい話してしまった。
 ホームの端の方へと場所を変えた後、小夜は真夜の話を、ちゃかすでもなく、気味悪がるでもなく、静かに聴いていた。
 その間に、真夜と小夜とが乗るべき電車が、一本、また一本と目の前を通り過ぎて行く。同じ学校の顔見知りの生徒が、ホームの端のベンチに座って話し込んでいる真夜たちを、もの珍しそうに見やってから電車に乗り込んで行くのを何人も見送った。
 もしかしたら気味悪がられるかも知れない、という真夜の不安は、杞憂に終わった。最後まで聴き終えた小夜は、しばらく考え込むような素振りを見せたが、やがて真夜の顔をまっすぐ見据えたまま言った。
「それは、確かに。そんな夢をしょっちゅう見せられて、現実でもそんな目にあったら、ノイローゼっぽくもなるよ」
「でしょう?もう、気持ち悪くて、近頃は夜が来ただけで頭が痛くなるの」
 そう言いながらふと時計を見た真夜は、時刻がすでに夜の八時を回っているのに気がついて、思わず叫んだ。話しただけで、もうずいぶん気持は軽くなっていた。
「やだ、もうこんな時間。ごめんね、こんな話に付き合わせて」
「いいよ。うち、親が年中出張行ってて、ほとんどあたしの独り暮らしみたいなもんだから。…ま、だからって帰りが遅くなるのはまずいよね。続きは次の電車に乗ってからにしようか」
 そう言いながら、小夜が一瞬とても寂しそうに目を伏せたように見えた真夜であった。
 柳川小夜の母親は怪しげな仕事をしている、という噂を思い出し、彼女を相談相手に選んだことに、ふと不安を覚えた真夜だった。しかし、今の自分が頼れるのは彼女しかいないのだから、と、自分にいいきかせた。
「別に、へーき。うち、お父さんが単身赴任で、お母さんも毎日帰り遅いから」
 真夜の返事に、小夜は驚いたように目を見張った。「そっか…」
 そして気まずそうに視線を逸らしながら言った。
「誰もいない家に帰るのって、慣れてても、なんとなくいやなときってあるよね」
「そうだね。なんだかまるで、誰からも必要とされてないような、置き去りにされたような気分になるときがあるなぁ」
 真夜も思わず足元に目を落としながら言った。すると、小夜がぽつりと応えた。
「…でも、帰りが遅くなるのは、よくないよね。家の中に誰もいなくても、自分に何かあったら悲しむ人が、必ずどこかにいるはずだもの」
 そんな相手、自分にいるんだろうか、そう思いながら顔を上げると、小夜と目があった。迷いやためらいの感じられない、真っ直ぐな眼差しだった。
 真正面から見つめられて、真夜は思わず目をぱちくりさせて彼女を見つめ返した。すると、小夜がそっと意味ありげに微笑んだ。
 そのとき突然、真夜は、初めて彼女を目にしたときのことを思い出した。あのとき、真夜が彼女に目を引かれたのも、この眼差しと、物静かでありながら、いかにも意思の強そうな横顔のためだったのだ。
 次の瞬間、駅に電車が滑りこんできて、二人の注意はそちらへ移ってしまった。できるだけ人気のない車両を選んで乗り込んだ後、話を再開した。
「今は、もう夢は見なくなったんだよね。それで、その代わりみたいに、今度は現実がおかしくなっちゃったってことなんだよね」
「そう」
 真夜が頷くと、小夜はまたしばらく考え込んだ後、思い切ったように言った。
「いっそのこと、訊いちゃえば。その夢魔に。あんたの狙いはなんなのって」
「そんなこと…。それでもし、“あんたの今の人生は自分のものだから返して”なんて言われたら…」
「言われたら、どうするの?」
 静かな声で、けれどもどこか鋭い小夜のもの言いに、真夜はぎょっとした。しばらくの間、真夜は考えてみたが、なかなか答えは出てこなかった。そのうちに、電車は笹沢という駅に到着した。
 ドアが開くと、いつの間にか外は土砂降りになっていた。
「あたし、ここが一番近いんだ。じゃあね」
 なんといえばいいのか分からず、真夜は不安な気持ちのまま小夜に別れの挨拶を述べた。意外なほどあっさりと、小夜は電車から降りてしまった。なんとなく、再び沈んだ気持ちに陥りながら真夜が電車の発車を待っていると、電車の出入り口から、再び小夜が顔を出した。
「もしかしたら、余計なお世話かもしれないけど。ほかの人はともかく、あたしは、カキザキマヒルなんて子、ほんとうに知らないし、覚えもないの。あたしが知ってるのは、一年生のときの委員会でシャーペンを忘れたあたしに、お気に入りの紺色のシャーペンを貸してくれて、クッキーの袋についてるリボンも受け取れないくらい黄緑色が嫌いな、カキザキマヤって子だけだよ」
 そこまで言うと、小夜は少し言い淀んだ。けれども、すぐにまた口を開いた。
「だから。だからもし、あなたが、今の自分が何かの間違いなんじゃないかって、それで、それを嫌だって思ってるのなら、多分、安心していいと思う」
 しばらくぽかんとして目の前の少女を見つめた真夜だったが、やがて、彼女にシャーペンを貸したとき、ちょっとした会話の中で自分から「紺色好きなんだ」と話したことを思い出した。「覚えてたの?」
「それじゃあ、おやすみ、真夜。また、明日」
 そう言って手を振ると、小夜はさっと電車から降り、姿を消した。もうとうに暗くなってしまった外の景色をぼんやりと眺めながら、真夜は独りで考え込んでいた。自分はいったい、どうしたいのだろう、と。

* * *

 雷雨の中家に帰り着くと、思いがけず玄関に電灯が点っていて、真夜はぎょっとした。どうやら、今日は珍しく母の帰りが早かったらしい。見つかったら、さぞかし母は怒り狂うだろう、ひょっとしたら、玄関で真夜の帰りを待ち構えているかもしれない。
 そんなことを考えながら恐る恐る玄関の戸を開けたが、予想に反して、母の姿はなかった。怪訝に思いながら玄関の土間に目を落とした真夜は、そこに数カ月ぶりに見る姉の靴を見止めた。次の瞬間、居間の方からパシっという大きな音と、それに次いで母が派手に泣きだす声が聞えてきて、真夜は慌てて靴を脱ぎ、居間の入口へと駆け寄った。
 そっとドアを開けて中を覗くと、そこには姉と母、そして驚いたことに、父の姿もあった。姉が少し腫れて赤くなっている左の頬を手で押さえている。さっき聞えてきた音は、どうやら母か父が真冬に手を上げた音だったらしい。父にそんな度胸があるとは思えなかったので、恐らく母だろう。
 真夜はともかく、今までずっと、表向きは蝶よ花よと育てられてきた姉が、両親に手を上げられたところを見たことがなかった。真夜は自分の目を疑った。
「あんたはそうやって、自分のことばっかり。たまには親の言うことぐらいききなさい!」
 腫れた左頬を抑えたまま、真冬が母に向かって金切り声を上げた。
「なんなの?今さら、えらそーに。あんたたちなんて、こっちが小さいときから、都合がいいときはへーこらこっちのご機嫌とって、都合が悪くなると問答無用で全部とりあげるだけだったくせに」
 真冬のこの言葉に、更に逆上した母が何か言い返していたけれど、あまりにも強い怒りのためか、あまりまとまった言葉にはなっていなかった。その母の隣には、相変わらず気弱そうな父がおどおどとした様子で立っていた。そしてときおり、見当違いなところで母や真冬の言葉に「そうだそうだ」などと相槌を入れている。
 いわゆる「修羅場」というやつだったのだろうけれど、その光景は真夜にはあまりにも滑稽に思えた。自分なりに、家族の中で一番「イイコ」を演じてきた自分が、実はこの家の中で一番の部外者だったのだ、と思い知らされたような気もした。そう思い始めたら、散々悩んでいた自分がなんだか急にばからしくなってしまった。
「…みんな、どっか行っちゃえばいいのに」
 誰にともなくそう呟いた真夜だったが、すぐにそれが間違いだと気がついた。みんないなくなるより、もっとずっと手っ取り早くて誰も困らない方法があった。
 誰からも相手にされなくて、誰も信用できなくて、誰の心にも残れなくて、苦しい辛いと心の中で騒いでいるのは、ほかならぬ自分なのだ。だったら、その自分がいなくなればいい。そう思った途端、ずっと肩に乗っていた、何か重くて大きなものが、ふっと消しとんでしまったような感覚を覚えた。
 真夜はそっとドアを閉め、玄関の方へときびすを返した。今夜は土砂降りの上に、ときおり雷まで落ちている。夜歩きをしている子どもを見咎める者などいないだろう。今夜がチャンスだった。もしかしたら、自分がいなくなったら、例の「真昼」って子が自分と代わってくれるかもしれない。
 玄関で靴を履くのももどかしく、真夜は土間へと降り立った。居間の様子を伺いながら、玄関のドアノブに手をかける。
—また、明日—
 ふと、先ほど聞いたばかりの、柳川小夜の言葉が脳裏を過った。
 誰もが 「垣崎真夜」を忘れてしまった中で、彼女だけは、自分のことを覚えていてくれた。もしもこのまま自分がいなくなったら、彼女はどうなるだろう。ある日突然、彼女の知っている「真夜」がいなくなって、代わりに全然知らない「真昼」って子が、その場所にいたら。そして、自分以外、誰も「真夜」って子のことを覚えていなかったら。
 少しは寂しがって覚えていてくれるだろうか、それとも、すぐに真夜のことなんて忘れて、最初からそんな子いなかったんだって思うようになるだろうか。そこまで考えたて、真夜はぞっとした。
 確かに自分は存在していたのに、自分がいなくなったら、それを証明してくれる人は誰もいなくなってしまうのだ。それが急に、とても恐ろしくて、とても悲しくて、そしてとても悔しいことのように思えてきた。
 ふざけないでよ、そんなことになったら、あたしのこの十四年間は、なんだったの!心の中で、真夜はそう叫んだ。いなくなるのは、この怒りを誰かにぶつけてからにしよう。そう考えたが、居間の言い合いはまだ当分収まりそうになかったので、それは明日以降に延期することにした。
 できるだけ足音を立てないように気を付けながら、再びきびすを返し、自分の部屋へと逃げ込んだ。寝間着に着換えベッドに潜り込むと、自分でも驚くほどあっさりと寝入ってしまった。

* * *

 気がつくと、真夜は壁も床も、天井までも真っ白な広い廊下に立っていた。今度の夢はいつの場面だろう、などと思っていると、廊下の向かい側から、こっちへ一目散に走って来る人影に気がついた。
 近づいてきた人物の顔を見た真夜は、思わず叫んだ。
「お父さん」
 今よりずっと髪がふさふさしていて白髪もほとんどないけれど、それは間違いなく真夜の父親だった。父は真夜に気付かず、そのまま真夜の前を横切って行った。振り返って見ると、すぐそばに『分娩室』と書かれた看板の掛けられた扉があった。そこから運ばれて出てきたのは、母だった。
 視点は変わったけれど、また最初からやり直しなのか、とげんなりしながら、真夜は目の前の光景を見詰めていた。すると、再び景色が変わった。
 今度は、病室の中だった。大きなベッドの中には母が横たわっていて、その隣の小さいベッドの中に、赤ん坊がいた。近くに、真冬らしい女の子が立っていたので、多分赤ん坊は真夜か、あるいは「まひる」なのだろう。
 次はなにを見せるつもりなのだろう、と思いながら赤ん坊に目をやった真夜は、ふとおかしなことに気がついた。赤ん坊の顔が、まるでピントの合わないカメラの画像みたいに、二重写しに見えるのだ。よく見てみると、赤ん坊の名前が描かれたプレートも同じようにダブって見えた。片方には、「真夜」、そしてもう片方には「真昼」と書かれているように見えた。
 訳がわからず真夜が立ちつくしていると、また景色が変わった。今度は、ベビーベッドに寝かされた自分と、そばに立つ両親、そして真冬の姿が見えた。ほかの家族はなんともなかったけれど、やはり赤ん坊の顔だけが二重に見えて、しかもそれぞれの顔がさっきよりもはっきりと分かれて見えた。
 その後も、真夜がこの数カ月の間に見てきた夢の場面が入れ換わり立ち替わり現れては消えて行った。不思議なことに、場面が切り替わる度、真夜らしい少女の二重になった顔の区別が、はっきりとつけられるようになっていった。そのうちに、顔だけでなく身体まで分かれて行き、まるで同じ場所同じときに、別の人間が二人いて、それぞれ別々に動いているような状態になっていった。
 やがて、場面はとうとう、先ほどの、家族の言い合いを真夜が眺めているところにたどり着いた。
 なんとも奇妙な気分で、居間を覗く自分の姿を眺めていた真夜は、自分が玄関へとって返した直後、思わず声を上げた。
 それまで、少しずつ違う動きをしながらも、ほとんどぴったりと寄り添うように動いていた二つの人影のうち、いくらか色の濃い方が思い直したように二階の寝室へ向かった。しかし色の薄い方は、そのまま玄関の扉を開け、雷雨の中へ駆け去ってしまったのだ。

* * *

 なにがなんだかわからないまま呆然としていた真夜は、ふいに自分が、青い空を眼下に見はらしているのに気がついてびっくりした。慌てて足元を見ると、幅が片足の幅ほどしかない、左右に延々と続く細い塀のようなものの上に立っていた。めまいを覚えて、真夜はとっさに目をつぶった。
 倒れそうになった瞬間、誰かが真夜の腕を掴んだ。見ると、自分と同じ顔をした、けれども自分よりずっと色白で明るい色の目と髪とを持った女の子が、自分の腕を掴んでいた。なんだか哀しそうな顔で真夜の顔をじっと見つめた後、その少女はもっと哀しそうに目を伏せて言った。
「ごめんなさい」
 思わず少女の顔をまじまじと見つめていると、少女は続けた。
「びっくりしたでしょう。でも、これしか方法がなかったの」
「どういうこと?もしかして…あなたが、真昼?」
 真夜が尋ねると、少女は再び顔を上げ、真夜の顔を見詰めた。
「うん。私が真昼。はじめまして、真夜さん」
 そう言って真昼と名のる少女はちょっと笑った。笑うと、少女はびっくりするほど可愛かった。こんな哀しそうな顔をしていないで、もっと笑えばいいのに。そう思ってからすぐに、彼女は自分と同じ顔をしているのだということに気がついて、なんだか急に恥ずかしくなった。見かけは自分そっくりだったけど、彼女の方がずっと大人びていて上品で、頭もよさそうに見えた。そんな真夜の心の中を知ってか知らずが、真昼は続けた。
「最初から説明するね」
 そう言って一呼吸おいてから、真昼は話し始めた。
「あなたと私は、もともと、違う人格を持って、別々の人生を歩むはずだったの。でも、ちょっといた偶然が重なって、あなたの人生と私の人生が、ぐちゃぐちゃに絡まり合ってしまったの。途中でそれがほどけて—あなたもさっき見た、真冬姉さんと父さん母さんとの喧嘩のときのことなんだけど—、あなたと私は分かれることができたの。だけど、それだと中途半端なまま、私はあなたの人生にからめとられたまま、自分の本来の道に帰ることができないってことが分かって…」
 思わず身を乗り出して、真夜は彼女の言葉に割って入った。
「あなたの本来の道って?じゃあ、今のあたしの立場は、あなたのものじゃないの?だって、あのときあなた、あたしに“返して”って…」
 少女は一瞬目を丸くした後、急に何かがふに落ちたとでも言うように、くつくつと笑った。
「そうか。それであなた、あのときあんなに怯えてたんだ。違うの。ごめんなさい、怖かったでしょう」
 あのときとは、きっと衣裳部屋で初めて対面したときのことだろう。言葉とは裏腹に、いかにも悪気のなさそうな彼女の様子が少し腹立だしかったけれど、真夜はそれをぐっとこらえて先を促した。
「そう。それで、私は私の道に帰るために、最初から全部ほどきなおさないといけなくなったの。そのためには、あなたの記憶を引き出して、私の記憶と突き合わせていくしかなかったのだけど、それはあなたが眠っている間にしかできなくて。引き出すときに、その記憶を、あなたは夢として見ていたの。それで、私とあなたとの記憶は引き離せるはずっだったんだけど…」
 そこまで言うと少女は言葉を切り、真夜の顔をじっと見詰めた。あまりにも荒唐無稽な話に、ほとんど真夜の頭は追いついていないかった。
「だけど、ある頃から急に、あなたの意識があなた自身の記憶じゃなくて、なぜか私の記憶の流れの方に流れ込み始めてね。それで私の意識も自分の記憶からあなたの記憶の流れに押し出されてしまって。そうなると、その記憶の先まで、私とあなたの人生すべてが入れ替わってしまう。それで私、慌てて。鏡越しにあなたに、“帰ってきて”って言ったの」
「帰ってきて?…記憶の流れ?」
 そのときふと真夜は、自分が「こんな人生まひるって子にに押し付けてしまいたい」と思った日のことを思い起こしてはっとした。もしかしたら、こんな事態を引き起こしたのは、真夜自身だったのかもしれない。
「でも、よかった。やっとあなたの意識と私の意識とを交差させることができた。私とあなたとの意識が離れた今夜が、最後のチャンスだったから。お互い、帰りましょう。それぞれの、記憶の流れのなかに」
 少なくとも、自分が恐れていたことは全て杞憂だったのだということだけは真夜にも理解できた。半信半疑ながら拍子抜けして、真夜は思わず溜息を吐いた。
「なあんだ。あたしてっきり、あなたがあたしにとってかわろうとしてるんだと思ってた」
「まさか。ごめんなさい。前もって、説明できればよかったんだけど…」
「わかったんだから、もういいよ」
 それにしても、真夜がこの少女の記憶の流れのなかにいたというなら、つまり自分は彼女のなかにいたということになる。どうして、柳川小夜だけは自分のことを知っていたのだろう。それだけが真夜のなかに疑問として残った。
 ちょっとためらった後、真昼が尋ねた。
「もしも、あなたの予想が当たっていたら、どうするつもりだったの?」
「うんとね…」
 少し考えてから、真夜は言った。
「多分、返してたと思う。家族はめちゃくちゃだし、学校には信用できる子がいないし、授業も宿題もそんなに好きじゃないし、部活だって、歌は好きだけどそんなにうまい方じゃないし。とにかく、そんなに楽しくなかったから、むしろ最初は、できるなら誰かに押しつけてしまいたいって思ってた」
 そこまで言って、真夜はひと呼吸おいてから、続けた。
「でも、そうなったら多分、すごく嫌だとも思う。だってここで人生終わったら、ほとんど楽しくない思い出ばっかりのままになっちゃう。もっと大きくなったら、今の嫌な家族から離れて自分の好きなところに行って、好きなことができるようになる日がいつか来るかも知れないのに。あたしが子どもの頃好きだった本の主人公は、みんなそうだった。旅に出て、色んな思いをして、やっとほんとうに自分が欲しかったものを見つけるの。だから、その本の主人公たちみたいに努力しておけば、きっとあたしもいつかそうなれるんだって、あたしは今も心のどっかで信じてるんだと思う。だから、家族からばかにされても、のけものにされても、真面目にやってこれたんだと思う。それに…」
 そこまで言って、真夜は言葉を切った。すると、真昼が興味津々といった様子で、その先を促した。
「あたし今、ほんとうに友だちになりたかった相手と、やっと友だちになれそうなんだもん。ここで諦めたくないよ」
 真夜の答えに、真昼は満足そうに笑った。
「そう。私も、自分の道に帰ったら、探し出したい相手がいるんだ。もう、見つけ出せるかもわからないくらい、遠く離れちゃったけど。どんなに時間がかかっても、あの子のことを見つけ出したいと思ってる」
「それ、男の子?」
「うん」
「そっか。あたしは、そっちはまだいいかなあ。そもそも女子学校だから、出合いがないし」
「そんなんじゃないよ」
「どうかなあ」
 真夜の言葉の後、二人は顔を見合わせて笑った。ひとしきり笑い合った後、二人は示し合わせたように、お互いに手を振りあった。
「それじゃあ。この塀を隔てて、こっち側が私の道、そっち側があなたの道。もう、お互いの道がこんがらがることはないはずだから。さようなら」
「お互い、頑張りましょう」
 その会話を最後に、二人の少女はそれぞれの道がある方へと飛び降りた。

* * *

 目が覚めると、真夜はいつもの通り自分の寝室にいて、いつもの通り目覚まし時計のアラームが部屋の中に鳴り響いていた。ここ数日味わったことがないほど、気分はスッキリしていた。
 目を真っ赤に泣き腫らした母と出会した瞬間、昨夜の出来事を思い出した。自分の怒りを誰かに吐き出すのだ、と決意したことも。
 しかし、ふて腐れた様子の母の顔を見ていたら、何だかばからしくなって思い止まってしまった。
 みんな、自分が一番かわいくて、自分が一番かわいそう、そう思いながら生きている、そういうものなのかもしれない。もっとも自分には、損得勘定抜きで気にかけてくれる相手もいるけれど。そう思った途端、なんだか急に気持ちが軽くなるのを感じた真夜であった。
 いつもの通り朝食を済まして、駅へと向かった。昨夜の雨はすっかり上がっていた。空気は澄んで、雲間には明るい水色の空が覗いて、街路樹の葉先に溜まった水の滴が、太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
 雨上がりの朝はいつも気持ちのいいものだったけれど、今朝はひときわはっきりと鮮明に景色が見えるような気がした。
 電車に乗り込んで二駅進むと、柳川小夜が同じ車両に乗り込んできた。
「おはよう、小夜」
 真夜が言うと、小夜がちょっと目を丸くした後、言った。
「おはよう、真夜。昨日はよく眠れた?」
「お陰さまで、スッキリ目が覚めました」
 学校の最寄りの駅で降りて、二人は他愛もない話をしながら、学校へと向かった。小夜のクラスと真夜のクラスはちょうど反対の校舎に教室があったので、二人はそこで別れた。真夜が教室へ向かっていると、後ろから声が聞こえてきた。
「おはよ、垣崎さん」
 振り向いて見ると、同じクラスの図書委員がそこにいた。
「原さん。おはよう」
 二人は並んで歩きながら、今日の宿題のことや、今日返って来るテストの結果などについて、あれこれと話した。そのときふと、真夜は思いついて、相手の少女にこう尋ねた。
「ね、原さん。あたしの下の名前、知ってる?」
「なあに、突然。ええと、確か、真夜、だよね?真夜中の、マヤ」
 この返答に満足して、真夜はにっこり笑って言った。
「正解。あたしの名前は、真夜だよ」
 ほかのどんな名前でもなく、真夜。これが自分の名前なのだと、真夜は自分自身にしっかりと言い聞かせた。

(終)

表紙画像 (C)柴桜様 『いろがらあそび1』作品No.32
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=56687725

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