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花の香りに誘われて

――世の中には「自分さえ知っていればいいこと」もあるの――

ある日、押入れの奥に見つけた文箱。
「都忘れ」の香りを閉じ込めた小さな箱の中には、
今は亡き祖母の「秘め事」が仕舞い込まれていた。

短い溜め息のような,他愛無い短編ですが、よろしければお付き合いを。

 ――拝啓  秋立つとは申せ、残暑厳しき折から、いかがお過ごしでしょうか。――

 そんな古風な書き出しで始まる祖母の手紙を見つけたのは、ちょうどその手紙と同じ八月の終わり頃のことだった。
 母の実家の、二階の一番奥の部屋。少しかび臭い押入れの奥に押し込まれた文箱の一番下に、隠すように仕舞われていた。
 赤い漆に、花の形の螺鈿細工が施された蓋を開けた瞬間、典雅で優しい香りが鼻をくすぐった。文箱の中で色褪せずに保存されていたであろう薄紫色の匂い袋は、祖母が生前愛用していた「都忘れ」という名の調香だ。亡くなってから既に3年経っているが、この文箱の中身は、それよりもっと前から、ここで眠っているようだった。
 少し黄ばんだ、薄い透かし模様の入った縦書きの便箋には、毛筆で、祖母の手らしい流れるような文がしたためられていた。
 母によれば、祖母はこの界隈でも屈指の生き字引だったという。この地域の言い伝えや歴史についてかなり詳しかったそうだが、そのほとんどを誰にも伝えず、墓まで持って行ってしまったらしい。祖母が亡くなってから、郷土研究家の間でにわかにこの地域の歴史が脚光を浴び始め、母はひどく残念がっている。
――世の中には、自分さえ知っていればそれでいいことも、たくさんあるの――
 それが祖母の口癖の一つだったという。
 階下の母が上がって来ないのを確かめてから、私は手紙を読み進めた。悪いことをしている気はしたが、好奇心には勝てなかった。

――貴方が戦地へ発ってから、もう随分と月日が流れたような気がしております。まだ、たったの一月しか経っていないなんて、信じられません。そして、そのたった一月の間に、貴方が亡くなってしまったなんて、尚更信じられません。
 あの夜、貴方は私に触れて、誓いを立ててくださいました。生涯、あなたの温もりを胸に生きていこうと思っています。けれども、現実は厳しいものですね。
 来月結婚することになりました。先日、父母が「お前の結婚相手だ」と写真を見せてくれました。
 △△市の、お医者の一族の次男坊で、学校の先生をされているそうです。お顔が少し、貴方に似ています。でも、少し身体の弱い方のようです。丈夫さが自慢の貴方とは、正反対です。――

 手紙はここで終わり、日付と宛て名、そして祖母の署名が続く。
 見てはいけないものを見てしまった。綺麗に畳んで元の封筒に仕舞う。文箱の中には、ほかにも何通か手紙が入っていたけれど、ほとんどは下書きか、何かの理由で出さず仕舞いになったものらしかった。
 その中に、私の父に宛てて書かれたものがあった。日付は、最初の手紙から28年後の同じ日だった。

――先日は、色々と不愉快な思いをさせてしまい、申し訳なく思います。
 □□大叔父は、生来気位が高く、高飛車なところがあるのです。二十七にもなって、どこか幼いままの〇〇(母)の行く末を案じているからこそ、余計に貴方に辛く当たってしまったのでしょう。
 けれども、貴方が、「この若造が」などと罵られても、黙って耐え忍んでくさったお蔭で、全て丸く収まりそうです。今後、本家の人間が、貴方と〇〇の結婚について、口を挟むことは無いでしょう。――

 その後もあれこれと、父のことを案じる内容が書き連ねられていたが、他愛のないものだった。恐らく、祖母が父にこんな手紙を認めたことなど、母は知らないだろう。
 あまりに奥手で幼かった母は、27歳で父と結婚するまで、浮いた話が全く無かったという。
 今ですら、私と母とで話していると、どちらが母親でどちらが娘なのか分からなくなることがある。母自身、実の子でありながら、祖母の美しさも祖父の聡明さも受け継がず、病弱な祖父とは真逆の頑健な身体だけが取り柄だと、昔からよく零していた。
 私は文箱の底にその手紙を仕舞い、押入れの奥に戻した。その瞬間、何かが引っかかって、手紙の内容を頭の中で反芻した。
 そして、日付がおかしいことに気が付いた。母の誕生日は祖父母が結婚した翌年の春だから、手紙の日付が間違っていないのだとしたら、かなりの早産ということになる。まさか母は……。
 そこまで考えて、やめた。こんなのは、ただの妄想だ。
 もし、当たっていたとしても、恐らく祖母が墓まで持っていった「隠し事」だ。そうやすやすと暴くべきではないだろう。それに、暴いたところで誰も幸せにならない。
 人が来ないのを確かめてから、文箱をもう一度取り出し、件の手紙だけ抜き取った。手紙を小さく折り畳み、ポケットの奥に仕舞う。
 この手紙は燃やしてしまおう。そして、この手紙を呼んだことも、その内容も、誰にも知られないようにしなければ。
 ちょうどその時、階下から、歌うような母の呼び声が聞こえた。私は返事をして、階下へ向かった。
 立ち上がった瞬間、「都忘れ」の香りが漂う。
 ふと、自分は亡き祖母と、時を隔てて秘密を共有したのだ、と気が付いた。
 その瞬間、自分は、周到に用意された罠に誘い込まれた、迂闊な蝶でしかなかったのかも知れない、そんな思いに囚われた。

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