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「僕は、死なない。」 刀根健さん著

刀根健さんの「僕は、死なない。 全身末期がんから生還してわかった人生に奇跡を起こすサレンダーの法則」という本を読んだ。
正確にはオーディブルで聴いた。

僕は、死なない。 全身末期がんから生還してわかった人生に奇跡を起こすサレンダーの法則

興味深いと思ったのは、社会軸でしっかりと仕事をして来られた男性の方からの視点の、所謂スピリチュアル体験ということ。

スピリチュアルや引き寄せ系の発信者は、大概が社会人として馴染む事が出来ずに人生に行き詰まって、「社会での生きづらさ」を感じて、スピリチュアルや引き寄せなどの方向へ行く事が多いように感じています(私もそのパターン)。

刀根さんの場合は社会人としてしっかり仕事も信頼も生活も勝ち取って生きている中で、「肺がんステージ4」という体験を通して「サレンダー体験」に至った経緯がとても興味深いと思いました。

私の場合は社会人としてはポンコツ過ぎて、いわゆる「社会不適合者」としてずっと生きづらさを感じていて。
頑張れば頑張るほど空回りするし、ドツボにはまるし、疲弊するし、生活も回らなくなるし身動き取れなくなってきた。

最近「私なんぞ所詮こんなもんだし、ポンコツはポンコツらしく生きるわ」とSNSで呟いたところ、「良きサレンダーですね」と言われたのをきっかけに「サレンダーとは?」と調べ初めたところ、刀根さんのこちらの本が検索に上がってきて、興味を持ったので聴いてみました。

刀根さんの場合は命に関わる大病を通しての「サレンダー体験」でしたが、私は仕事とお金と経済活動が、頑張れば頑張るほど空回りしてどん底に陥る体験をしていて、体験は違えど似たような考え方に至っていたな、と思いました。

「もうお手上げだ」と現状をコントロールしようとすることを手放してから、随分と気持ちと身体が楽になってきたし、何よりもぐっすり眠れるようになりました。
少し前までは、不安と焦りに駆られて夜中に飛び起きたり、眠れなくなったり、
朝方になって明るくなって来ると、疲れて睡魔がやってきてやっと眠れたり。

そういう中でも、友人がサポートしてくれたおかげで、ブレてもブレても「自分軸にもどる」という事を意識する事ができて、なんとか自分を乗りこなして来ていた。

そんな中で、色々な人達の発信の中に響く文言をみつけたり、それについて「自分はどうだろう?」と考えたり向き合ったりして、

「結局は私なんかが社会軸の中で上手くやろうとしたところで、たかが知れてるよなぁ」と、ポジティブに諦めがついた(笑)

社会人としてはポンコツの中のポンコツ、「ポンコツエリート」なのに、社会軸の中で認めてもらおうとか、立派だと思ってもらえる成果を見せようと、完全に他人軸で思考行動していた事を認め、受け入れ、そして手放さざるを得なかった。

私の行動の中に「私はこうしたい」とか「私が楽しいからやりたい」なんてすっかり無くなっていたのに、それすら気付かないフリをしていた。

「やると決めたんだから、やると言ったんだから、やりきらなきゃ、周りに迷惑が掛かる」とか、
「行くと決めたんだから、周りがなんと言おうと行かなきゃならないんだ」とか。

でも、それを実行しようとすればするほど、頭は重たくなるし、身体は動かなくなるし、反対されたり、邪魔が入ったり、問題が起きたり。

最終的には身内が緊急入院・手術する事になって、「これはもう、私の体力もメンタルも時間も限界だな」と、白旗を上げざるを得なかった^^;

多分、これは刀根さんの言うところの「サレンダー体験」的なものだろうな、と。

所詮、自我が「目の前の世界に起こること」をコントロールしようとじたばたと格闘したところで、
大いなる意識の位置から見れば、ちょっと風が吹けばちぎれて飛ばされる葉っぱ程度なのだろう。
ならば、飛ばされる運命を受け入れて、風に乗り、川に流され、抵抗せずにゆく所までゆけばいいのだろうな。

普段から、「世界は自分の意識の投影である」とか、「他者は自分の鏡である」とか、「起こることすべては自分にとって意味があり、ポジティブな事もネガティブな事もすべてが必要で起こっている」とか、そういう意図と意識を持って生活をしてきていたつもりではいたけども、
なんのなんの、私はまだまだブレるし揺れるし、立派でもなんでもない(笑)

本の中で、「自分は大いなる意識の一部だ」という事を説明したところがあり、「大海が大いなる意識、そこに起こる波が自分」という表現があったけど、それがとても分かりやすくて。

今までは、その大海の波の中に人間としての自分が泳いでいて、大波が来る度に溺れそうになりじたばたしていた感じでいたけど、私がそもそも「波」ならば、溺れる事も無いもんね。

ただ波として大きくなったり小さくなったりうねったりと形が変わるのは、自分の意思ではなく、風や月の動きなどの自然の力に寄るもので、そうやって自分は自然の一部だと肚の底から受け入れ、委ねられれば、物事は流れて行くのだろうな、と思った次第です。

今現在は、自我の位置の私が、自分の体裁のために、自分を立派に見せるために、カッコよく見られるためにと、決断して行動してきたあらゆる物事を、
ことごとく縮小したり、頭を下げたり、日程調整したりと、「本来の私のサイズ」「本来の私の能力」に見合った行動へと落とし込むための残務処理的な、いわゆる「尻拭い」をやっているところです。

こういう「見たくない私」からも、これまでは逃げて来たなと思い知りながらの作業なので、なかなかにキツい事でもあります。

でも、先日読んだ坂口恭平さんの「生きのこるための事務」も参考にしつつ、「等身大の私」に見合った生き方を模索していく段階でもあると思っています。

大いなる意識位置の私は、どんな人生を楽しむと決めてきたのか、どんな体験をしたいと思って今世に生まれてきたのか、
これから、自分の人生がどんな風に流れて行くのか、観察者のつもりで楽しめたらいいな、と。

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