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帰国子女:小学生の時、そして自分の子供と重ねてみて。

最初の投稿で自己紹介文に自分がいわゆる帰国子女であったことを書きましたが、あまり皆さんには知られていないかもしれない、小学生がアメリカに行くとどうなるか(当時どうだったか)を少し綴りたいと思いました。なぜなら、今、自分の子供が私が海外にいた年齢になり、娘を見ているとそれに重なるのです。そして、子どもって、親から見ると本当にわかっているのだろうか、とか、もうそんなこともわかるようになったか、とか、感じることが様々ですが、子どもなりに必死だということをしっかり覚えているから、きっと親が思うほど心配しなくてもいいのかもしれない、と子育てしながら思うからです。

私は4年生(80年代後半)でアメリカに行きましたが、yes, no以外はもちろんわかりませんでした。それでもまだ思春期ではなかったため、かなり自然と英語が第一言語のように入ってきました。5年生の時にはっきり覚えているのが、授業中にわからない単語をまず英和辞典で調べ、その調べた日本語の意味が分からないので今度はその日本語の意味を国語辞典で調べます。それでもわからない場合は英英辞典で調べ、またそこで使われている英語の意味を調べ、ようやく一つの意味が分かるといった感じ。あるいは、小学生用の辞典では調べきれないので大人用のものも使うのですが、これまた知らない漢字が使われているとその画数から調べて読み方を覚え、それを国語辞典で引く、そしてその意味を調べてようやく元の英語の意味がわかる、という、今のスマホの時代では考えられないくらい面倒な作業を10歳でやっていました。まあ、そんなに長くは続かなかったのですがね(笑)。それよりも結局友達との意思疎通、やり取りで英語はほとんど自然と学んでいったような気がします。

5年生のころ、アメリカ2年目、とにかく必死でした。話したいこと、伝えたいことがあるけど、しっかり聞きとれていないとわけわからない受け答えをしていたかもしれないし、ましてや英語がまだそこまでできていなかったから、何を言いたいのかさえ友達も理解に苦しんだのではないだろうか。。今はそう思いますが、みんなとても優しかったです。

国語や社会の授業の時は、クラスを出て同じ小学校内の別の教室にあるESL(English Second Language)クラスに行っていました。単語や発音をフォニックスで叩き込まれ、少しずつ自信をつけていきました。図工や体育、算数などの授業になると、言葉がわからなくてもできます。ほかの授業はわからなくても、できる科目があればそこで自信となり、学校がつらくはないのです。休み時間も、言葉ができないからと言っていじめられるようなことはありませんでした。伝わらなければ必死で身振り手振りで伝えるし、面白いものは面白い、楽しい、で一緒に笑えます。

そんなこんなで6年生。向こうの6年生は中学1年生。6年生になったら、ESLに行くと、友達と一緒にいられないのが嫌で、先生にどうする?と聞かれましたが最初から断りました。3年もアメリカにいると、特に思春期前だったので、英語はかなりできるようになりました。(その代わり日本語はどんどん抜けていきました…。)辞書ももう面倒くさくてあまり引きませんでした。もちろん、社会という科目はアメリカの歴史なども入ってくるので、まったく得意ではありませんでした。先生もそれはきっと見過ごしてくれていたのでしょう。あまり点数が悪いことに対して言われた記憶がありません。それよりも、できるものをさらっと褒められた記憶があります。

子育てをしていて子供が何かができないと気になりますよね。。大丈夫かな、うちの子、後れを取っていないだろうか。他の子も同じ感じなのだろうか。そんなことを考えてしまい、ついつい心配していしまいますが、自分の子供のころを思い出すと、きっと本人は必至で生きているんだろうな、と思います。どんな状況であっても、得意、不得意があるけれど、できるところを褒めてあげて、自信を持ってもらい、他のこともチャレンジできる姿勢でいてほしい。

アメリカに行った小学校、中学校時代。相当衝撃的だったのでしょう。よく覚えています。友達と過ごす日々の楽しかったこと、学校も問題なくいわゆるティーネイジャーらしい10代を過ごせたこと、嫌なこともあったけれど、得意な何かがあればどうにかなったこと、そんなことを思い出しながら、自分の子供と照らし合わせて、心境を探りながら子育てをしています。

読んでいただきありがとうございました。


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