韓国語を話す私は、日本語を話す私よりずっと正直だ
韓国に10年住んだ私は、韓国語はもちろん結構話せる。10年も住んだから、当たり前と言えば当たり前。
どのくらい話せるかというと、韓国人の夫と喧嘩をしても負けないくらい、韓国の学校に通う娘の担任の先生に電話でためらうことなく、文句が言えるくらい。
自分でも結構なレベルだと思っている。
生活の中で、多言語を頻繁に扱う人なら共感してくれるかもしれない。私は「日本語を話す自分」と、「韓国語を話す自分」、結構違う顔を持っている。
もちろん、思考を巡らせるときに使う言葉は母語である日本語を使う。でも日本語はなぜか、「考える」と「話す」の距離がいつも遠い。
日本語を話すとき、少し繕って、相手に配慮する。それから発話する。だから距離が遠くなる。話すより書くことのほうがずっと好き。
韓国語を話すときはというと、考えると話すの距離がもっと近くて、もっと正直になれる。これは本当に不思議な感覚。
もっとありのままの赤ちゃんみたいな自分が出ている。相手が夫じゃなくても、ずっとずっとありのままの思いを口に出せる。
日本語と同じことを韓国語で言えないけれど、韓国語と同じことを日本語で、「話せない。」
まだ使うようになって10年しか経っていない、大人になってから学んだ外国語なのにどうしてありのままになれるのだろうか。
それはやっぱり、話す相手が違うからだ。話す相手も、もう少し正直な気持ちを話してくれる人が多いから、私ももう少し正直になれる。
小さな発言を気にしなくて、流してくれて、笑ってくれる、話し相手がそんな人だという感覚が私の中にある。それが私の気持ちを少し楽にしてくれている。
韓国語を話す自分、韓国語を話す自分を得たこと。
私は結構好きだなと今日思った。
韓国語を話す自分を得たことが、生きやすさにつながって心の豊かさを得られた気がしている。
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