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いつか今日を思い出してニヤニヤしたい

こんばんは、たけだです。

実はnoteを整理していましたら、
公開していない文章を見つけました。

恐らく去年の夏に書き殴ったものだと思います。

半年以上経って、読み返してみて、

文体や環境が変わっても

根底にある考え方は変わらないんだなって

そう思いました。

書くことって良いですよね。

その日、その瞬間の自分が

何を思って、何を素敵と思っていたか

恥ずかしいほど鮮明に思い出す。


ここでちなみに昨日素敵だなと
思ったことを一つ。

バイト先の先輩2人と私の3人での会話中。

先輩方が

「ここのバイトの人ってみんな良い人よね」

と仰いました。

私は心の底から同感しましたし、

その先輩方も、他の人達も、この場所も

全てが「素敵だなぁ」と思いました。

若い人がそう言って笑い合える職場って

本当に素敵だと思います。

こんな感じにつらつらと思ったことを
書いていく。

そしてしばらく経った時、

これを読み返してみて

また同じことを思い出す。

ニヤニヤしたりしたい。


ということで

あの日の自分へタイムワープ!!
飛んでけー!!
(訳 : 読んでみてください。お願いします。)




もし世界中の「努力」が報われていたら。

もしそうだとしたら
私は今日きっと目の前で電車に置いていかれることもなかったのです。

あんなに一生懸命走ったのに。

まぁそれは置いておいて。

日本語は美しく、柔らかい。
しかし時として、核心をも隠してしまうことがある。

(あ、別に韻を踏んだとかそうのではないです)

そんな日本語は
とてつもなく「曖昧な言語」とも言えるでしょう。

「努力は必ず報われる」
「結果が全て」

こんな優しい世界線に
この二つの言葉が共存していることが
最近の私の疑問です。

「努力」って「保険」だと思う。

「頑張ったけど、ダメだった」
「できる限りのことはやったんだけど……」

日本語がそうであるように、
日本人は「曖昧」を好みます。

その方が周りに同情を買ってもらえるから。

そのくせ、たまに残酷で慈悲が無いのも日本人。

一度失敗したらそこまで。
一度見限られたら、見返すためには結果を出すしかない。

バッサリ切られてそれっきり。





いい加減気づけよ。
努力は必ずしも報われるとは限らないんだよ。

でも神様はいつだってストーリーテラー。

今日だってそうだ。

あんなに走って間に合わなかった電車。

次の電車に乗った私は、ある光景に出会った。

そこには、良く言うと元気。
悪く言うと害児。

今日のテストの教科が悲惨だったので機嫌悪くて
お口がお悪い私をお許しください。

何と言いますでしょうか。

靴のまま、椅子に立ち、大声で騒ぎまくる
小学校低学年の男の子。
各駅で止まった電車の扉からホームの方に顔を伸ばして
唾を吐きまくり、車内を唾を吐きながら駆けていく。

さすがに驚きました。

でも誰も注意しない。
これは人生の先輩が悪いですな。
注意しないのは、
「別に構わない」と言っているのと同じですからね。

もちろん、私を含めて。

言いたかったぁ。
迷惑になるから止めなさいって。
言えなかったぁ。

その男の子は嬉嬉として、ある中学生の男の子に話しかけた。

「しりとりしよう!」

すんごく大きな声で。

あらあらあら。

でもその男の子

「いいよ」

笑顔、優しい声。

あらあらあら。

その男の子は私の降りる終点の駅まで、しりとりを続けて

「またね」

そう言って去って行きました。

ああ、素敵だな。

と思いました。

この世界は曖昧。
だから美しくて、厳しい。

だけど、何だか私は思ったわけです。

私も一本筋の通った人間でいたい。

彼はとても優しく、素敵に思えた。

あんな風にできる人、何人いますでしょうか?

こんな付け焼き刃な誓い。
でもやらない善よりやる偽善。

そうだ、いいじゃないか。

あ、電車に傘を忘れた。

ホームに降り立って気づいた。

雨が止んでいた。
気温はグッと上がって、蝉達が騒がしくなった。

行き先不透明なこの世界。

黒とも白とも言えぬ、
このグレーの生温い世界に横たわっているのが
きっと一番楽なのだ。

でもその中で
「自分」を抱えて生きて
一本通った自分で生きていきたい。

どうぞ、その傘使ってください。

今日も独り言に付き合って頂き、ありがとうございます。
素敵な一日をお過ごしください。




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