人を真正面から祝えない(Twitter副音声:22/03/24)

今日、私の通う京都大学で卒業式があったらしい。
僕はまだ2回生だし、今日は一日のほとんどを移動に費やしたので縁がなかったが……
それなりに知ってる人が集まってたっぽいので顔ぐらい出したかったな……
なんかまた会とかやるときは教えてください。
ダジャレの一個ぐらい持っていきます。

◆ ◆ ◆

そんなハレの日ではあったが、お世話になった人達に届ける目的で言えた言葉はこのツイートだけだった。

周りの人たちは先輩方の卒業報告に直接リプライをして話に花を咲かせていたりするが、僕はそうしていない。
別に疎遠だったとかそういうわけではない。
一緒に遊んでもらったり仕事のサポートをしてもらったり、そういう思い出がある人も大勢いる。
さらに、このツイート自体も(分かりづらいが)クイズ的な要素を含んだ「解けるツイート」になっている。
人を祝うという目的に自分の創作物を公表するという目的を被せて、誤魔化したような形にしてツイートしている。

「人を祝う」という行為に対して、少し抵抗感を感じている。
誕生日の時もそうだ。
Twitter(の、少なくとも今僕がいる界隈)では、誕生日ですと報告をすると、フォロワーさんたちが集まってきておめでとうの一言をかけてくれるという流れが定番化している。
僕が去年誕生日報告をした時もそんな感じだった。
だが、最近の僕はそれすらもできなくなっている。
いや、できないということはないと思うんだけど、それをする勇気がない。

「おめでとう」を言う勇気がない、というと変に思われるかもしれないが、一応その理由も説明できるつもりでいる。
何かを祝おうとすると、おそらく僕は「おめでとうございます~色々ありがとうございました」などとリプライする。
そうするとおそらく「ありがとう!これからもホニャララ」と言った感じの返答が返ってくるだろう。
このやり取りは十分価値があるものだと思う。
内容自体はテンプレートに見えるかもしれないが、そんなことは問題ではない。
お互いがお互いのことを考えながら送る、貴重な時間から生まれた言葉である。
だが、この「お互いがお互いのことを考える」という行為に、僕は耐えきれる自信がないのだ。

僕は自分の内側から出てくる感情を直視するのがすこぶる苦手なので、誰かと真正面から向き合って、純粋な気持ちを込めて物を言う行為などとても耐えられそうにない。
だから、言えない。
言ったとしてもエアリプ程度にとどめてしまう。
オンサイトで会話をしてるなら、場の流れを利用して笑いながら「おめでとう」ぐらい言えると思うが、発する言葉を吟味するSNSでそんなことを言える気がしない。
言わないというのも、冷たく、無関心な行為に見えてしまうことは分かってるけど。

でも、祝いたい。
せっかくだから話とかしたい。
この状況から抜け出す唯一の方策に、一応の心当たりはある。
先ほどのツイートの説明でも書いたが、創作物と抱き合わせで祝うことだ。
「創作物」というと大層だが、言葉遊び1個、謎解きの問題1枚とかで良い。
その人の名前とか、キャラクターとか、功績とか、あるいは祝いの言葉そのものを連想させるような何かを送ることができれば、僕は自分の感情から目を背けつつ、遠回しに思っていることを伝えることができる。
ちょっと前までは誕生日にその人の名前が答えになる謎を送ってたりしたが、それができていたのもこの辺が理由だと思う。

邪道かもしれないけど、感情とかいう厄介なものを乗りこなすには、こうやって慣れていくしかない気がする。

そういえば、このnote自体が「自分の創作物に人を祝うメッセージを乗せた」ものになってるな……

◆ ◆ ◆

~あのツイートのどこが創作物なんだ?って人向け解説~

「世知辛い」世の中を「後・後・後・前・後」にズレるように揺さぶって、と言っているので、「せちがらい」の5文字を五十音順(あいうえお順)で1文字ずつ「後・後・後・前・後」にずらすと『そつぎよう(卒業)』になる、ということでした。

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