『吾輩は猫である』英訳問題

翻訳というのは思ってる以上に難儀な作業です。

別に私は翻訳家ではなく、英訳/和訳は入試対策としてやった程度ですが、それでも「直訳」が役に立たない場面には何度も遭遇しました。
日本語にあって英語にない表現、英語にあって日本語にない表現というのは山ほどあります。
そんな時は文章全体を読み直して、その文が文章中で果たしている役割を踏まえて適切な言葉を考え、原文の意図に合う文を作る必要があります。
翻訳というのは直訳ではなく、文意を変えないようにする作業なのですね。
(なんかセンター試験の過去問でこういう話あったような…)

さて、今回の話題は『吾輩は猫である』です。
『吾輩は猫である』はご存知の通り、

吾輩は猫である。

という、タイトルと同じさっぱりした文言から始まります。

これを英訳すると、

I am a cat.

となります。そりゃそうだ。
Googleブックスとかのプレビューで確認してもそうなってました。

しかし、この訳では『吾輩は猫である』の特徴が失われてしまっているんじゃないか、と私は思ってしまいました。
すなわち「文意を変えない」ことが重要視される翻訳としては不十分なんじゃないか、ということです。


なぜ "I am a cat."では不十分なのか

まずは『吾輩は猫である』の面白さを見つめてみたいと思います。

この作品は冒頭部分が有名になってしまっているので、名前も生まれた場所も分からない猫が薄暗いじめじめしたところでニャーニャー泣いている印象が強いかもしれません。
しかし、本文のほとんどは人間観察日記です。
珍野苦沙弥という教師の家に居候する猫が、その家に訪問してくる人間たちの滑稽な会話を聴き、たわいもない事件を覗き、人間の愚かさやらなんやらについて一人称視点で(つまり猫目線で)述べた形の小説です。

そしてこの小説の面白さを決定づけているのが、豊かな言語表現です。
語り手はあくまで猫であるにも関わらず、まるで学者のような目線で、人間の行動を偉そうに、しかし痛快にぶった切っていきます。

例えば家の主人とその友人である寒月、迷亭が馬鹿話をした後では、

吾輩はおとなしく三人の話しを順番に聞いていたがおかしくも悲しくもなかった。人間というものは時間を潰すために強いて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、面白くもない事を嬉しがったりするほかに能もない者だと思った。吾輩の主人の我儘で偏狭な事は前から承知していたが、平常は言葉数を使わないので何だか了解しかねる点があるように思われていた。その了解しかねる点に少しは恐しいと云う感じもあったが、今の話を聞いてから急に軽蔑したくなった。かれはなぜ両人の話しを沈黙して聞いていられないのだろう。負けぬ気になって愚にもつかぬ駄弁を弄すれば何の所得があるだろう。エピクテタスにそんな事をしろと書いてあるのか知らん。要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜のごとく風に吹かれて超然と澄まし切っているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒している俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。ただその言語動作が普通の半可通のごとく、文切形の厭味を帯びてないのはいささかの取得でもあろう。

とまあ何とも批評家のようなコメントを長々と述べています。
猫にものを語らせようとするとき、「糸瓜のごとく風に吹かれて」なんて比喩を使わせますかね……?

この作品は終始この調子で続いていきます。
時にはネズミ捕りをしたり縁側に潜り込んだりと、実に猫らしい仕草をするのですが、そんな場面であってもこの猫は軽妙に哲学を語っており、なんとも言えない可笑しさを感じます。

この独特の面白さは、主人公が人間であっては決して生まれません。
しかし、猫が我々の期待するようなひたすら可愛いことを喋っていても生まれないものです。

小動物でしかない猫が、偉そうに、そして表現豊かに物語っている。
そのギャップがあるからこの小説は面白いのです。

(もちろんどこに面白みを見出すかは人それぞれですがね)

さて、それでは冒頭の文章に戻りましょう。

吾輩は猫である。

吾輩を辞書で引いてみると、

一人称の人代名詞。男性が用いる。
おれさま。わし。余。尊大の気持ちを含めていう。

となっています。
「吾輩」なんて言葉を使う時点でその語り手の尊大さ、つまり他人を見下したような態度が連想されますね。

しかし、それでも「吾輩」は「猫」であるのです。
「猫」でしかないのです。
この一文には、先述のギャップが凝縮されています。
「僕は猫だ。」とか、「私は猫ちゃんなんだニャ☆」とかだとこのギャップは生まれません。
(それはそれで面白いかもしれませんが)

しかし、これを英訳してみると結局 "I am a cat."なのです。
「僕は猫だ。」であろうと「私は猫ちゃんなんだニャ☆」であろうと、みんな "I am a cat." なのです。

英語圏の人が "I am a cat." という文章を見た時にどんな語り口を想像するのかは分かりませんが、この「吾輩」感が出せないのは少し物足りないような気がします。
作品を後の方まで読めば、もちろん「猫」と「吾輩」のギャップに気付くはずですが、やはり文頭のインパクトが無くなるのはもったいない……


ちょっと解決案考えてみた

ではこの「吾輩」感を出すためには、どうすればよいのでしょうか。
ちょっと考えてみました。
(ここまで真面目に論じてきましたが、ここからはほぼお遊びです)

1.尊厳の複数

こうなったのは英語の一人称が "I" しかないことが原因なんだから、単純に "I" じゃない表現を探せばいいんじゃない? と思って適当に探したら見つかったのがこの「尊厳の複数(Wikipedia)」。
なんでも、"I" ではなく "We" を使うことで身分の高さを示すものらしい。
でも、これは多分王とか皇帝が自分たちの治める国民とかを含めて "We" を使っているのでしょう。
別にあの猫にはそんな素晴らしい権力なんて備わってはいないし、むしろ権力や自治は嫌いそうな性格。
というわけで却下。

2.猫に名前を付ける

めっちゃ賢そうな名前を付ければギャップが生まれるのでは?
と思ったけど二文目の「名前はまだない。」と一瞬で矛盾するわ。
却下。


ここまで "I am a cat" を言い換えようという方向性で話を進めてきましたが、よくよく考えるとこれは実は無意味なんじゃないかなと思うように。
そもそも「吾輩」「僕」「俺」など一人称の種類が多い日本語を使う人と、"I" しかない英語を使う人では当然人の呼び方に対する考え方が異なるはずなので、単純に日本語の「吾輩」にあたる言葉を探すのはかなり暴力的なのでは、と。

というわけで、それ以外の案を……

3.全くの別物にする

つまり、猫の自己紹介で始めるのではなく、「猫が難しいこと言いますよ」というアピールから始めるということ。
例えば "From the point of view of a cat, I'll speak about~(猫としての立場から、私はこう述べる)" という感じ。
堅苦しい感じは出てるけど、小説としてどうなんだろうか……
ちょっと文全体を見渡さないと評価できない。

4.紙とインクと文字のフォントに高級感を持たせる

結局こういうところに落ち着いてしまいますかね。
海外の本は学術書でもない限りペナペナの紙の表紙ってことが多いけど、あえて古めかしい分厚い表紙にしっかりカバーを付けて、フォントもいかにも知性がある人が小難しいことを書いたようなものにする……


結論

言葉って、難しいね。

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