20年。黴の生えた苦い記憶を開陳しよう

誰にでも、何にでも、「初体験」というものはある。

それが甘く楽しいものだったのか、苦く屈辱に塗れたものだったのか、それは人それぞれだ。
だが大概の人が「あなたの初体験は?」と聞かれれば、甘くて色褪せない、でもしんみりと苦み走った思い出を思い浮かべるのではないだろうか?

そう、大概の人は、だ。
世の中、この大概の人に分類されない人だって当然いる。私もその一人だ。

「初体験は?」と聞かれて真っ先に思い出すのは苦く、屈辱に満ちた光景。もう20年近くも経っていい加減苔生した記憶のはずなのにまだ色彩まで鮮明に思い出せる光景。
率先して忘れようとしたはずなのに、風呂場のタイルの間に浮かんでしまったカビの足のように、いつまでもしつこく黒い汚点を残し続けるその光景こそが、何よりも先に思い浮かぶ私の「初体験」だ。


なぜそんな埃をかぶって黴臭くなった記憶を今更引っ張り出して、あまつさえこんな場所で公開しようと思ったのか?
それにはもちろん、理由がある。一つのnoteだ。

たまたま、本当にたまたま目にしたこの文章が私が封印してきた、いや、封印しようとして実際にはしてこれなかった記憶をあまりにも明確にフラッシュバックさせた。

この筆者があまりにも自分の姿に重なった。
それが理由だ。この恥と苦痛と恥辱に塗れた過去の経験を白日の下に晒そう、なんて考えたのは。

この話はおそらく、長くなる。
もう20年近くも経っていて、本当に細かいところは曖昧でもある。もしかしたら文章としての役を果たさないかもしれない。
それでもお付き合いいただけるのであれば、この長く古く黴臭い独り語りに耳を傾けていただきたい。


2001年。大学4年になる時、私は大学を休学した。
目的はバックパッカーとしてユーラシアを回ること。高校卒業と同時にやってみたかったことを実現した瞬間だった。

大学を休学して最初にしたことは、休学中の学費と旅費を稼ぐためのバイト。自分のわがままですることで親に世話にはなりたくなかった。

それまでの金を貯めるためのバイトではなく、目的のために金を使うためのバイトはいくらでも頑張れた。今考えてみれば、一般就職組の初任給以上を優に稼いでいた。

その金をもって、海を渡った。

最初の目的地はタイのバンコク。
ここから人生で初めての海外旅行が始まった。

そう、人生で初めて海を渡ったのだ。
行く先々でその日の行動を決めるから、とその日の宿も次の日の計画もろくに決めないまま空港に赴き、飛行機に乗り、重い荷物を担いで異国人で溢れる到着ロビーに足を下した。
どこからどう見ても無謀でしかない。今の自分で振り返ってみても、一瞬も悩むことなく「うん、お前馬鹿だね」と他人事のように切り捨てられるほどの冒険野郎だ。

むしろこんな無謀野郎が数日間だけでも一人でやっていられたことに感心しかしない。

いや、数日間だけだったから、なのかもしれない。
なにしろ日本を旅立って1週間で事故に遭って身ぐるみ剥がされ、路頭に迷うことになったのだから。


先のnoteを書いたしょうごさんはインドで詐欺にあったらしい。
私はタイだった。

驚いたのはその手口。
20年も経っているはずなのに私が経験した手口ととてもよく似ていた。細部は違っていても骨格は完全に一緒だった。

どうやら詐欺の手口は埃に塗れようが、黴が生えようが、腐ったにおいを放っていようがだまされる側が気づけないならなんでもいいらしい。
もしかしたら、古典的で成功例が多いからこそ埃をかぶることもなく今でもピカピカに輝く定石として活きているのかもしれない。


その日私は無防備にお金やパスポートを入れたショルダーバックをたすき掛けにすることもなく肩からぶら下げて、人の多い屋台通りを物色しながら歩いていた。
日本という世界に名だたる治安のいいお国でしか生きてこず、特に周囲に気を配ることもなく、のほほんと、まるで東京の街をブラついているかのように歩く私は控えめに言って良いカモだったのだろう。

ふとした瞬間に、肩から下げていたショルダーバッグを掻っ攫われた。

慌てて見上げれば、私のショルダーバッグをもってタクシーらしき車に乗り込む女性が一人。
今考えればやめておけば良かったのだが、当時の私はパスポートをなくさないことに異常なまでに執着していた。海外初心者だった自分は、海外でパスポートをなくすことが命の危機に直結するように思えていたのだろう。

そうして慌ててその女性を追いかけたところで控えていた別の男性によって車内に押し込まれた。極めてスムーズに、周囲から見て違和感がないように。
ご丁寧に先に乗り込んでいた女性がにこやかな笑顔で迎え入れているかのような態度だったことは、今でも鮮明に覚えている。


走り出した車の中で、半ばパニックになりながら抗議する私に彼らはにこやかな笑顔で語りかけてきた。
細かい内容は覚えていない。乱暴な手段をとってごめん、どうしても君を誘いたかったんだ、これから楽しいところに案内してあげる、絶対に後悔させないから、そんな感じのことだった気がする。

冷静に考えれば、そんな訳あるかアホ!としか言えない内容だ。だが、パニックになり冷静な判断力を欠いていたアホには効果的だった。
もしかしたら最初にショルダーバックを掠め取った、元凶の女性が若い美人だったことが影響していたのかもしれない。オトコはいつだって見目美しい女性の前ではサルになる。

そんなアホなサルは地理もろくに知らないバンコクから高速道路に乗った車中で何もできないままに、体感時間で1時間程度?のドライブを強制的にエンジョイさせられ、そしてそのままよくわからない、なんの特徴もない民家の1つに連れ込まれた。


その民家では元凶の美女とそのお付の野獣の男性の仲間の男性が2人待ち受けており、ポーカーだったかブラックジャックだったか、とにかくカードを使った賭けをしようと持ちかけてきた。

最初は断った。

なにしろ見ず知らずの連中だ。
当時は頭が真っ白で思いつかなかったことだが、されていたことは疑問の余地もなく誘拐だ。
そんな怪しさしかない環境で賭け事なんてやるはずがない。それだけはサルの頭でもわかった。とにかく断った。

最初はにこやかに説得を試みてきた連中もとうとう業を煮やしたのか、最終的にはナイフを突きつけられた。つべこべ言わずにさっさとやれ、と。

ナイフを取り出したのは一人だった。
しかもそれはよくある十徳ナイフのような、小型のものだったような気がする。切れ味があるのかどうかさえわからない。そんな代物だったはずだ。

なのに、ビビった。
抵抗する気が失せ、反抗心が鳴りを潜めた。
大の男が恐怖し、牙を折られた獣のように尻尾を丸めて従順になった。いや、最初から牙なんて持っていなかったのかもしれない。そう思いたかっただけで。


カード博打に同意した次の瞬間、待ち合わせていたかのように、実際に今か今かと出番を待ち受けていたのだろう、正装した男が一人、部屋に入ってきた。
その男を指して、グループの主犯格のような親父が、「この人は大富豪で友人だ。今回のカードゲームはこの人とやる」なんてことを言ってきた。それと同時に隣に控えた美女が「大丈夫、私が助けるから絶対に勝てるよ」などと囁いてくる。

ナイフを出した時点でそんなことを信じるバカはいない。
絶対にグルで、始める前から負けることは決定している。茶番以外の何物でもなかった。

ゲームを始めるとたしかに美女が相手の側に寄り添い、テーブルの下で相手の手札をこちらに教えてくる。
バカバカしかったが、もしかしたら、なんて甘い希望にすがってそのハンドサインに従いつつゲームをした。

結果なんて覚えていない。
勝ったり負けたりをしながら、結局は大きく負かされた。それだけが事実で結果だった。


演出が大事だったのか、途中で一度休憩を取り、その間に大富豪役の男がスーツを着替えていたのを覚えている。そして主犯格らしい親父が、「見ろ、ああして服装を変えるのが本格的なマナーなんだ。彼は慣れているだけあって違うだろう。本当なら君も着替えたほうがいいんだ」なんてことも言ってきていたはずだ。
着替えなんてあるわけないのに。


途中経過はよくわからない。
もともと覚えていなかったのか、すでに忘れてしまったのか。

とにかく負けた分の金を払え、という話になった。
賭けのレートもあったのかなかったのか。どういう経緯でどれだけ負けたのか。その全てが今となってはまったく思い出せない。

覚えているのは、手持ちに現金がないならキャッシングと手持ちのクレジットカードで金を買え、と言われて半ば強制的に実行させられたことだ。ただどちらの場合も、相手は絶対に自分ではやらず、私自身にやらせた。
キャッシングも、ゴールドショップでのサインも。


なぜあの時の自分は唯々諾々とそんなことをしていたのか、と思う。
店に入る前、車を降りた瞬間。
どの時でもよかった。なりふり構わず、叫び、逃げ出せばよかった。なのにそれができなかった。

人目はあったはずだ。

いくらなんでも一目で外国人だとわかる若者が助けを叫びながら逃げていたら、周りだって異変に気づくだろう。
そんな周囲を気にして、男たちだって追いかけては来なかっただろう。

なのに、あのとき、自分は唯々諾々と従った。恥辱にまみれていた。


取れるものを十分に取り上げ、用のなくなった私を男たちはご丁寧にも宿の近くまで連れ帰ってくれた。誘拐の現場だったかもしれない。とにかく、その辺りだ。
もちろん、私に感謝の気持ちなんてなかった。

その日、予め数日分の宿代を前払いしていたおかげで宿のベッドで寝ることができた。


翌日、すぐに警察に行った。
警察で拙い英語を使って事情を説明すると、まず言われたのが、「お前、ここに来て正解だったな。もし普通の警察に行っていたらお前も逮捕されていたとこだぞ」だった。

話を聞いてみると、タイではギャンブルはご法度で、参加したものは全員、外国人だろうがその背景を鑑みられることなくとりあえず逮捕の対象となるらしい。
私が駆け込んだ警察は旅行者警察とかいう、普通の警察とは別の組織で多少は旅行できた外国人のことを考えてくれる組織だった。このおかげで、ギャンブルに参加したことにはお目溢しをしてもらえた、ということだ。

そんなことを交えつつ、被害の経緯を話した。

タイではこの手の詐欺は日常茶飯事らしいのだが、それでも「ほほ笑みの国」なんて別名が付くくらいだからかナイフが出てくるのはとても珍しい、と驚かれた。なんの慰めにもならなかったが。


どこで被害にあったのか、どんな連中だったか、連れて行かれた先はどこだったか。


聞かれたところで答えようがなかった。
場所、なんて言われてもそもそも地理も知らない土地で、車で、高速道路まで使って移動させられたのだ。交通標識、なんていったところでタイ語なんて読めない。
連れて行かれた先の景色は、特に見栄えもしない建売のモデル住宅のようなものが並んでいるだけの、どこにでもあるような平凡なものだった。そんな説明をしたところで、警察だって検討なんてつけようがない。

それでも彼らは親切だったと思う。

パトカーに乗って、それらしき場所に行ってくれた。半日、役にも立たない証言しかできない外国人に付き合ってくれた。

半日かけて走り回ったあとで、「お前はなにも覚えてないな」と呆れた目で言われた時のことは忘れようがないが、それでも相手の立場からしたら当然の愚痴だったと思う。
結局その日、警察に被害の証明書を発行してもらっただけで宿に帰った。


宿に前払いしていた期限が近づいていた。
ただ幸か不幸か、被害に遭う前に次の目的地に向けた移動のためのチケットを手配してもいた。

このままこの地に残るのか、とりあえず被害にあった国を出るのか。
残ったところでお金はない。何もできることなんてない。なら移動してしまったほうがいい。そう考えた。

ただ、移動するにしてもなんにしても、旅費の確保が必要だった。
使わされたカードが家族カードで、名義が親のものだったこともあり、日本への連絡は必要不可欠でもあった。

しかし、金はなかった。

今のようにネット経由で気軽に国際電話ができるような環境でもなかった。
金もなく、それでも連絡するにはコレクトコールくらいしか手段のない時代だった。そのコレクトコールでさえ、できるのはある程度以上の大きなホテルのみ、しかも手数料をとられる状態だった。

コレクトコールに手数料が必要なことを知らないままホテルに赴き、話を聞いて初めて手数料のことを知った。
無理をすれば払えない額ではないものの、それを払ってしまえば有り金が完全に尽きる、そんな額だった。途方に暮れていると、たまたまその話を聞いたらしい、そのホテルに宿泊していた白人のカップルが手数料を出してくれる、と申し出てくれた。
そのカップルは名前も連絡先も告げずに、手数料分の現金を手渡して去っていった。

彼らの顔は本当に申し訳ないが、覚えていない。
どのホテルだったかさえ、今となっては分からない。それくらい、自分のことに必死だった。


日本と連絡を取り、親に多大な心配をかけ、結局カード会社からの補償は受けられず、それでもわがままを通して日本に残してあった予備費を送金してもらって旅を続けた。

ギリギリさえ下回る予算のやりくりを常に考え、長距離移動以外はすべて歩き、地元の人が入る食堂で食事をし、宿は常にドミトリーにして平均一日4ドルで生活をした。
たぶん、現地民から見ても最低水準の生活だったと思う。

それでも旅を続けた。
期間は短縮したし、訪問場所も変えた。ビザの取得に時間と金の掛かる場所は削り、その代わりに金をかけずに行けそうなところを優先した。

なんのための旅だったのか、と問われれば、正直、答えようがない。

初めはなにかの”ため”の旅立ったはずだが、詐欺に遭ったことですべてが変わった。
あの瞬間からなにかの”ため”の旅ではなくなった。ただあの旅を通して自分は間違いなく変わった。人を頭から信じなくなった。周囲の挙動に異常なまでに敏感になった。
バックパッカーなんてスタイルで旅をしているくせに現地の人との交流を深めないなんてもったいない、と言われ続けながらも周囲との距離をとった。

この旅がもたらしたものに、当初から考えていたものなんてなにもない。
結果としてもたらされたり、自分で得たものしかない。ただ、世界を知った。並の旅行者では見ることもない、最底辺の世界を知った。それだけだ。


結局この旅は、西はイランまで行き、そこからパキスタンからカラコルムハイウェイを抜けて中国の西端を経由しつつ、中国を横断して上海からフェリーに乗って神戸に帰り着くことで終わりをみた。
フェリーの中でアメリカの世界貿易センタービルに突っ込む飛行機の映像をみた。何から何まで、波乱万丈の旅だった。


その後も、私は懲りることなくリュックサックを背負って旅に出た。
会社に勤めるようになってからも短い休みをなんとかつなげて海を渡った。海外に対する恐怖はなかった。

ただ、訪れた先の様々な土地で、必ず一回は思い出した。
忘れたい、無様な記憶を。自分の不注意を。無力さを。そして警戒心を。


そういう意味で、どれだけ渡航を繰り返しても海外に慣れなかった自分が、今は海外で暮らしている。
いつの間にか周囲の環境に慣れ親しみ、癖になっていた過剰なまでの警戒心も薄れ始めていたこのときに、冒頭に引用した記事に出会った。

これはなにかの暗示なのかもしれない。
そう思った。

もちろん、単なる偶然でなんの意味もない、単なる可哀相な被害者がもうひとり増えた、というだけの事かもしれない。
しかしそうして油断したときにこそ、騙される。
その不安が、拭えない。

20年近くも経った、忘れても不思議ではないはずの出来事が、未だに黴臭い幽霊となって私の背後には存在している。


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