だん

カウンセリングで
「もう甘やかさないでください」
と言ったら、
「もう自分をいじめないでほしいんだけど」
と言われた。

SNSを開けば、最後の大学、最後の学食、卒論、卒論発表、卒業旅行、研修、卒業、私が先延ばしにしたもので埋め尽くされている。
それらの言葉は全部、顎下に突き立てた拳銃に装填されていく弾だ。いつだって引き金を引く準備は出来ている。引きたくて仕方がない。でもそれは甘えだと思っている。私は生きて、自分をいじめないといけない気がしている。というか、生きることそのものが、自分をいじめることになる。どうしてこんなことになったのかは分からないが、ただ周りと同じように生きられなかった理由を知り、向き合わなければならない、そんな気がしている。

SNSから遠ざかるために、毎日ダラダラとゲーム実況をみる。私の見ている実況者とその視聴者の多くは、周りと同じように生きられなかった人間だ。そんなバカバカしいコメント欄と失言だらけの場末配信に溶け込んで、向き合わなければならない現実からいつだって逃げ続けている。見つからないように息を潜めている。結局この手段でしか、今は生きていける気が到底しないのだ。死ぬ、の一個手前の、最も甘やかされた環境だ。

「この時期は仕方がない」「あなたは病気だから仕方がない」そう言われて、「もう甘やかさないでください」と言いたくなる。これ以上甘やかされてしまっては、それは死だからだ。

カウンセリングで、ずっと避けていた就活についての話を少しした。間に合わせで縫った傷口を伸びた爪でこじ開けて、しどろもどろになりながら、ほんの少しだけど、就活についての話をした。終わり際に、「こんな話してそのまま帰ったら、あなたは家で自分をいじめるでしょ」と言われた。「何でもいいから容器を想像して」
その言葉通りに、ビーカーを頭に思い描いた。
「その中に就活のことはしまい込んで。しまえた?それをどこに置く?」
そう聞かれ、扉のある部屋の奥の方を指差した。
「ちゃんとしまえた?」
「いや、まだ、においがします」
「どうすれば置いていける?」
「他の液体で、溶かしてしまいたいです」
日頃の私のようだな、と嫌気がさした。
「それは無理だよ。なくすことはできない」
そうだよな、と思った。なくなりはしないと思い知らされた、が正しいかもしれない。先生の全てが正しかった。そうですよね、と俯くことしかできなかった。でも、先生は構わず続けた。
「大丈夫。あなたはしっかり蓋をして、奥の部屋にしまい込んだ。置いていくの」
先生は正しいから、それが正しくなった。

私はその日、自分を甘やかすことはしなかった。かといって、いじめることもしなかった。

きっといい先生に出会えたのだと思った。先生のためにも、向き合わなければならないな、とこの駄文を書いていて思った。

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