見出し画像

保活と4月2日の壁

一人目を考えたとき、まず頭に浮かんだのは保活だった。保育園激戦区のため、0歳入園を狙わざる得ない。そのため4月以降の誕生日に調整する必要があった。生命が誕生日する前から大人の事情に組み込まれているなんて、日本はどうなっちまったんだとは思うが仕方がない。些か下世話なはなしになるが、4月以降を狙ってその年の7月以降から妊活を開始した。

そんなの学校では教えてくれませんよ

そしたらまぁ、なんとすぐ妊娠した。予定日は4月。勝ち確定と思った。しかしここで思わぬ計算ミスをする。出産予定日は最終生理の開始日から計算するが、それにより算出された予定日は4月6日だった。学年の初めである4月2日を考えるとかなりギリ。少しでも早く生まれればアウトである。ギリギリでいつも生きていたいかとぅーんな生き方はこんなところでも出てしまうのかと震えた。

そして迎えた産休

ほんと親の都合を早々に子供に背負わすんじゃないよ、とあの頃の自分にメガホンで言ってやりたい。しかしそんな愚かな親にも関わらず、お腹の子は順調に育ち、2月に無事産休を迎えた。里帰りのため実家に戻り、しばらくは両親とベビー用品を揃えたり、束の間の休息とランチに出かけたりした。そして3月。私は完全な自粛期間に入った。妊婦検診以外は家から出ない。散歩は家の庭のみ。昨今、自粛自粛と騒がれていたがなんならこの頃の方が確実に外出自粛していた。とにかくゆっくりしてお腹に刺激を与えない。そのことに集中していた。

3月31日の破水

あと数日、あと数日過ごせば勝ち。4月2日を超えたら大好きな焼肉を食べようと思っていた3月31日の夜。何やら不穏なオリモノが出た。もう徹底的に安静にするしかないと、夜中ベッドで寝ていると、今度は不穏な腰痛がきた。眠れないし痛い。まさかアイツじゃないよな…ちょっと食べ過ぎたかなと脂汗をかいていたときだった。何か出る!慌ててトイレに駆け込む。いつものお花摘みとは違う経験したことのないお花が摘まれた。破水だった。

まだまだ続くんじゃ

万事休す…我が子は4月1日生まれ。4月1日といえばスラダンの桜木と一緒かと、どんどこ痛くなる陣痛に耐えながら病院に向かった。一人目のお産はなかなか進まないため、病院に行っても帰されることがあると聞いていたが、破水していたため入院が決まった。ゆっくりだが確実に開いていく子宮口と進むお産。もう4月2日とかどうでもいいから早くこの痛みから解放されたい。その横で母親が「今日生まれても病院が4月2日生まれにしてくれるよ」とか言っていた。母親の時代はそんなこともあったらしいが何言ってんだそんなわけない。そんな時代じゃない。そりゃ4月2日生まれがいいがもうそんなのどうでもいいいたいいたい。

と、ここでまた予想外の展開が起こる。陣痛が弱くなっていったのだ。あんなに痛かった陣痛が、呼吸法を使えばなんとか耐えられるレベルに収まりつつある。なお、この時の病院は破水に対して菌が繁殖しないとかなんとかの点滴をしていたので、破水→即帝王切開にはならなかった。痛みに耐えながら、ついに待ちわびたあの日を迎えた。

4月2日0時

この日は昼間せめてもの恩返しにと庭の草むしりをし、夜は焼肉にいく予定だった。父親は焼肉が好きだ。両親と焼肉に行くのは久しぶりだな楽しみだな…と待ちわびた4月2日は、陣痛を呼吸法で逃がし、2時間に一度NSTに向かうという全く考えもしない状態で迎えた。ここからは端折っていくが、その後微弱陣痛へと切り替わり、昼から促進剤を打ち、子宮口全開になったにも関わらずお腹の子が下に下がらなかったため、夕方帝王切開になった。ほぼ丸2日寝てない飲んでない食べてないだったので体力が限界だった。「4月2日までお腹でゆっくりしてね」という親の願いを忠実に守った我が子は生まれながらにして親孝行者である。

それからしばらくして、子供は1歳の誕生日を迎え、その日に0歳児クラスに入園した。その息子も3歳になり、弟もできた。今年は下の子がお腹にいる状態で4月2日を迎えたが、なんとも感慨深く感じた。両親との焼肉には、まだ行けていない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?