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友達の定義と現実のわたし。

なっちゃんは、わたしの中で友達というより知り合いってところからスタートした人。そしてそのまま恋人になった人。学生のときも社会人になっても、わたしは友達と呼べる人を作らなかった。その理由は、以前書いたnoteをご覧いただきたいのだが、そんなわたしに変化があった。











ツイッターという非現実空間のわたし。

ツイッターをはじめてから、100人近いフォロワーさんに囲まれる日々を送っている中で、友達だよ!って言ってくれる人が現れるようになった。

正直、戸惑いを隠せない。

これまで孤独に生きてきたわたしとしては、「友達」の定義がわからないのだ。

しかも会ったこともなくて、ツイッターの中のわたししか知らないのに友達だと言ってくれるのはとても嬉しいが、正直申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。

だって、リアルのわたしは本当にゴミみたいな人間だから、そう言ってくれる人になんのメリットも与えられない。

そして、実際に会うこともできないし、何かをご馳走することも、他の方法でお返しをすることもできないのだから。


ツイッターのわたしとリアルのわたし。

ツイッターで嘘をついているわけではない。

わたしはわたしだし、あいにくキャラを作って使い分けるほどの器用さも持ち合わせていないわけで。

現実のわたしとの大きな差。

それは言葉数。

現実のわたしはこんなにたくさんの言葉を、こんなに流暢に発しない。

なっちゃんとの会話も、かなりゆっくりだし、途切れ途切れで、それを汲み取ってくれるから意思疎通が図れるだけ。

そのやりとりを何倍にも早送りしたのが、noteやツイッターで書いている、わたしとなっちゃんとのやり取りである。

元カレと付き合うまではマシだったけど、付き合い始めてDVが始まったときくらいからだんだんひどくなった感じ。

別れ方が悪かったのか、彼に押さえつけられてたのが効いたのか。

別れ際にわたしが爆発したときは、それなりの速度だったと記憶しているが、それはまぁたまたまかな。

そんなわけで、わたしは人を前にすると言葉が出てこなくなるのだ。

辛うじて、メニューのあるお店や、品物を持っていくだけのお店なら買い物ができるが、話さないといけない場面が多いところは本当に辛い。

美容院は画像見せたりするだけで、声を発しなくてもなんとなくわかってくれるが、それでもやっぱり辛い。

周りに人がたくさんいる空間も息ができなくなる。

それがリアルのわたし。

ツイッターのわたしとは雲泥の差なのだ。


ツイッターという非現実空間だからこそ。

しかし、そんなわたしもツイッターの中では普通っぽく話すことができる。

文字だけだからね。

そんなわたしに思いもよらない出来事が起こった。

ツイッターの中のわたしを「親友」と呼んでくれるフォロワーさんが現れたのだ。

確かにすごく話しやすくて、共感できるところが多くて、何でも相談できて、相談してくれて、そんな素敵な関係は築けていた。

こういうのが友達ってことなのかなってことは、なんとなく思っていたが、まさかその上をいく位置に置いてもらえるとは思っておらず、混乱が混乱を生む。

でも、このときのわたしは、素直に嬉しかったんだよね。

この人ともっと仲良くなりたいって思えたから。

恋愛的な感じとかじゃなくて、ただただ仲良くなりたい感じ。

リアルに会ったりとかは無理だけど、ツイッターで仲良くして、DMのやり取りで素直に話しするだけなら、わたしのキモい部分が出ないはずだって。

そう思えた。

非現実だからこそかなって。


どんな関係であれ、心を許せるのはとても楽だと気付いた。

なっちゃんとの関係によって少しずつ、わたしの壊れた部分が改善できてる気はする。

さらにフォロワーさんとの交友関係や、親友の存在が、さらにわたしをいい方向に向けているのかもしれない。

わたしはゆっくりしか進めないし話せない。

人の気持ちを汲み取ることもできない。

感情もうまくコントロールできない。

でもね、やっぱり心から信頼できる恋人や親友、友達ができた今の状態は、わたしにとっては全てが新鮮で、とても楽しくて、とても楽だと感じてる。

辛くなったら気軽に相談したり、相談されたり、そんな経験がそもそも初めて。

それがツイッターの中のわたしだとしても、わたしであることは変わりないし、そんなわたしを好きだと言ってくれる人たちを大切にしたいと思う。


進もうとしているからこそなのかもしれない。

リアルな対人恐怖は拭えなくて、人混みで気を失うこともあるけど、それでも周りで支えてくれてるって思えるだけで、全然違うんだなって気付いた。

変化の速さについて行けてないし、これからもたくさん迷惑をかけるし、DMとかでとりとめのない相談をして困らせるんだろう。

それでもわたしはその人たちを疑いたくなくて、信じたくて、そんな気持ちを邪魔するわたしの中にある「信じられない気持ち」が許せなくて、いろいろな気持ちが交錯してる。

でもこの「信じたいという気持ち」や「信じていいんだという気持ち」は大切なことなのかもしれない。

前に進もうとしてるからこその苦悩なのかなって思いたい。

何回も、ママのもとに帰ってママの言う通り生きる方が周りに迷惑をかけなくていいのかもしれないと思ったりするけど、戻りたいわけじゃない。

わたしは今のこの状態がとても心地よいし、周りにいてくれるみんなのことが本当に大好きだから。

これからも、わたしは少しずつ、普通の人間になれるように、ゆっくりでも進んでいきたいと思う。

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