現象学的認識論(?): 不可避な逃避〜僕達は世界から逃げられない〜nagi

目は閉じていても耳や鼻や感触や思惟が世界の有り様をまじまじと見せてくるし
耳を塞いでも目や鼻や感触や思惟が世界の声を伝えてくる。

鼻や感触とも同じで
もっと世界は常に僕たちの手を握っていて、触れてきて、強制的に参加させようとしてくる。

それに抗うことは出来なく
また志向性は双方向ではない。

(この状態を仮に僕達じしんの不可避な逃避と名付ける)

志向性が僕たちとかち合う時、世界は鮮明にそのままの姿を現し、僕たちの心や身体をふるわせる。

これは一般に感動や忘れられない体験を指す。

だからこそ、未だ不可避な逃避中の者はそのかち合いに参加することはできない。

むしろ軽い嫉妬や呆れさえも発生するのだ。

それは紛れもなく人間が求めている
高みな体験だからだ。

でもそんなに難しいことではない。
常に僕達は世界に触れられていて、触れることができる。

要は手をさしのべられた状態だと言えよう。
その手をとるかとらないか

不可避な逃避の中でただ沈黙を守るのか
すぐ目の前に、なんなら触れてさえいるのに。

nagi

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