プールサイドの乙女どもよ



私の曲には『プールサイド』という曲がある



高校2年生くらいの頃だったかな、それは大層人間を、人生を、拗らせている時期真っ只中でした。 今となっては、青かったんだよと青春の1ページとやらに綴じられてしまうような過去のお話だけど、でもやっぱりその当時はとても息苦しかった。学校はサボりまくっていたし(2週間続けて行かなかった時も有)、誰にも言えないようなこともしたし、とにかく自分で作った檻の中で溺れた犬みたいに足掻いていました。

とは言いつつまだまだその反逆精神的なものは元気よく御健在なわけで、それを消化する方法として私の中にあるのが曲作りなんだと最近改めて思います。



今回お話しする『プールサイド』という曲は、学校のプールの授業でプールサイドにて見学をしていた時に思ったことをつらつらとブログに書いていて、それを元に作った曲。

もちろんサボり。プールの授業は大嫌いだった。サボっても結局は補修でやる羽目になるんだけどね。今思えば大した出来事ではないんだけれどそれが全てだった私には、抗うということでしか自尊心を保てなかったみたい。


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これが歌詞。

やっぱり曲を作り始めたばかりの頃の曲だから稚拙で面白みがないなあ、なんて。

でも実はとても好きな曲だよ。



馬鹿みたいだなあって思ったんだよね。

当事者は必死だったとしても傍観者になってしまっていた私には全てが馬鹿馬鹿しく思えた。その必死さとか努力とか、下手くそを上手にしなきゃいけない当たり前とか苦手を得意にする為の練習とか。なんで学校を1日も休まないことが偉いの?なんで部活に入って大会に出て賞状を貰うことが偉いの?火傷しそうに熱い地面の上で話したこともない知らない人のタイムを計りながらずっとそんなことばかり思ってた。こんなもの、所詮ただの数字でしかないのに。


こんなことをブログに書こうとその状況を俯瞰して見てみた時、死んでるみたいだなって思った。抽象的ではあるけれど。でもそれはプールの中で泳ぐみんなが生きていてプールサイドにいる私が死んでいる、ということではなくて、本当はみーんな死んでるのにそれを認めたくないと必死に生きているふりをしている、ということ。そして私は死んでいるのに死んだふりをしている。というのが、自分と他人と学校の本当の姿ような気がして書いた歌詞がサビのところ。プールの授業に限らず学校という箱庭全体のね。

そんなこんなで書き進めていくとあることに気付く。死んでいるのに生きているふりをすることより、死んでいるのに死んだふりをすることのほうがよっぽど惨めじゃん何それってね。

難しいねー。やっぱりその時のことを客観的に見てみると、それはもう傍観者としての感想になってしまう。馬鹿馬鹿しいと思ったその気持ち自体が馬鹿馬鹿しくなる。

でもそこで一度、この曲との区切りがついたってなんとなく感じられたのはよかった。楽しかったことも嫌だったことも、その記憶や思い出をひきずるために曲を作っているのではなくて、曲として過去に置いておき愛でたい時にいつでも戻って来られるようにしておくために作っているつもりだから。つまりはぐちゃぐちゃになった脳内や心を整理してファイルに保存しておくような、そんな感じなのです。


直接的には書いてないけど、この歌詞の本質は遠回しの自虐のようなものでこの中で1番に馬鹿馬鹿しい人間は自分。

無意味に抗って泳ぎ方を覚えることを避けてしまえば、いざという時に何も出来ず醜く溺れ沈んでしまう。その時は本当に死んじゃうよってことを自分に気付いて欲しかったのかな。分からないけど。

とにかくこれは、そんな気持ちの繰り返しばかりの日々のほんの1部分を切り取ったものなのです。


支離滅裂でごめんなさい。



9/29(日)

ASOVIVA 古河店にて20:35〜弾き語りをします

久しぶりにこの曲を歌おうと思うので、是非聴きに来てみてください 待ってます

▽タイムテーブル

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