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another story-ほんとのところ㊲

スマホで時間を確認すると2時57分。
部屋のドアは開いていて
ようちゃんはホワイトボードに何か書き込んでいた。
中に入ろうか迷っていると、ようちゃんが振り向いた。

こんにちは、と中にはいってドアを閉める。

申し訳ないです、長いこと休んでしまいまして
どこか他人行儀な挨拶に、大丈夫です、と答えにならない答えを返した。

ようちゃんに会いたかった、レッスンを楽しみにしていたの・・・
そう言いたかったけれど、口から出て来た言葉は
1か月ぶりですね。何だか糸が切れてしまったみたいです、だった。
気の利いた台詞のひとつやふたつ、、出て来ない。

久しぶりのレッスンはフワフワと足元が覚束ない感じがする。
あのやりたいと言った曲も
1小節ずつ、ほんのちょっとずつだけどできるようになってきた。

ときどき、もっと早くに習っていたらと考えることがある。
大人になってから、しかも40歳を過ぎてからの習い事は
飲み込みも遅いし時間がかかる。

例え10年前に戻ったとしても、ここに通う事も出来なかった思う。
ピアノやスイミング、塾の送迎と娘にかかりっきりだったから。

ようやく自分の時間が持てるようになった今だから出来た。
その時間も、いずれやって来る義両親の介護でいつ無くなるか分からない。
だから、この時間を楽しもうと思う。

レッスンが終わり片付けているとき、思い切って言ってみた。

「先生って、ステラおばさんみたいだよね。
チョコチップクッキーが焼き上がってオーブンを開けたときの匂いがする。
人を幸せにする香りがするの」

ようちゃんは不思議そうな顔をする。
そして、えっ?と自分の脇の下をクンクン嗅ぐような仕草をしたのに
違うよ、そういうのじゃないと突っ込みを入れる。

「先生、私がいるの気づいていたでしょう?」

「うん。でもいつも、いつの間にかいなくなる」

そうだよね、気付いていたんだよね・・・

「毎回先生の表情が違うの。
表情って言ってもこっちじゃなくて、こっちのね」

そう言ってドラムを指差した。

「そりゃ、毎回違うようにしてるから」

ようちゃんらしい切り返し。

「冷静に言ったらそうなんだけど、、
次はどんな顔をするんだろうって思ったら、毎回行きたくなるの。
もう、中毒みたい」

そう言った瞬間、ようちゃんの顔がぽわんと赤くなった。

「先生のおススメライブを教えてください」

「おススメ?ちょっと今すぐ分からないから、また教えるね」

「えー?自分のスケジュールなのに?」

初めて会った頃に戻ったみたいに自然に話すことができた。
そして、驚いたことに
ようちゃんが教室を出て店舗の入り口まで一緒に着いて来てくれた。

この前まで素っ気なく部屋の中から
さっ、帰った帰った、、みたいな態度を取っていたくせに・・・!

とてもとても小さな変化だけど、私にとってはとても大きな変化。

胸の辺りがくすぐったい。
このぽかぽかする感覚は一体何なの?
いい大人なのに年甲斐もなくこんな気持ちになるなんて・・・

ようちゃんに会いたくなったら、会いにいけばいい。
この教室にいるんだし、ライブに行けばいいんだし、、
ようちゃんはそこにいるのだから。

意地張って教室を辞めるなんてしなくてもいい。
ようちゃんと離れたくないのなら、離れなきゃいい。
好きでいたいのなら、好きでいればいい。

ただ、それだけのこと。
全部、自分がそうしたいから、するだけのこと。
もう、それでいいんだよ・・・








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