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「邪馬壱(台)国」の地形と役割

本文は、「永瀬淳幸」著「邪馬台国・倭国三十国」比定の「音形読み」によります。本文中の マ行音・ン音 の音形に使われた ,区切り内、 を ・容積内、 と変更してあります。

私の趣味勉強では、
〇「邪馬壱国」は、「卑弥呼」を国内にした筑紫平野内の「吉野ヶ里遺跡」面に有った国です。
〇「邪馬台国」は、「邪馬壱国」の後を継いだ「台与」体制が王権を築いた、現在福岡県内の「京都(みやこ)郡のある「狗奴国」内です。


「邪馬壱国(ヤマイチコク)」地形 … 
筑紫平野内の「吉野ヶ里遺跡」面を国内にした領土です。

「邪馬壱国」同盟国範囲。この中の「烏奴国、躬臣国」は「狗邪韓国渡来人国」同盟を兼ねています

邪馬壱国 … 音形読み
〇「倭国」内に「本島、大半島(佐賀県、長崎県が入る)」が接合して中間に「有明海、筑後川」がつながりきる、「有明海、筑後川」内の「筑後川」を囲んだ筑紫平野内に集まった台地面(吉野ヶ里遺跡)を国内に交わる。

※中国の「徐福」伝説では“ 「平原広沢(広い平野と湿地=筑後川河川敷)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述があります ”

「邪馬壱国」は、「始皇帝」の援助を受けた「徐福」船団が韓半島先端の「狗邪韓国」を占領し、「狗邪韓国王」を捕らえて「倭国」に移住し、

「狗邪韓国王」の下に「狗邪韓国渡来人国」と共に連合である「九州人国」を従属連合しました。

同時に、中国から持参した鉄活用の農具や車輪付きの運搬具等で「倭国」内の冠水地に対して干拓水田を開発し「倭国」内で尊敬を受けたと考えます。


1.邪馬壱国 … 誕生読み

〇「徐福、狗邪韓国王」が連合一体となった「徐福」船団が「橘湾、八代海」内になり、「九州人国」に収容されて、
「狗邪韓国渡来人国」が「倭国」内に住み着いた筑紫平野内の「烏奴国、躬臣国」西面(吉野ヶ里遺跡面)に(居住地を)交わった。

2.邪馬壱国 … 誕生読み
〇「始皇帝、徐福」体制が立体的にした「徐福」船団が「狗邪韓国(韓半島先端国)」を征服し、

「狗邪韓国王」を収容して「狗邪韓国王」服属の「狗邪韓国渡来人国」を国内に連合した「倭国」内に移住しました。

そして、「倭国」内となった「狗邪韓国渡来人国」を(徐福、狗邪韓国王体勢内に)集めて「狗邪韓国渡来人国」を連合内とした「倭国」も征服しました。

邪馬壱国 … 役割
〇「有明海、筑後川」が合流して「有明海」の満ち潮で冠水する「筑後川」浅瀬河川敷内にして、
「盛り土、掘割り,溜め池」を集めて干拓地水田を交わった。

※これまでの「倭国」には無かった,鉄素材を使った農機具や車輪の付いた運搬具等を「徐福」船団が「倭国」に持ち込み、「有明海」の海水で冠水する「筑後川」河川敷に「盛り土、溜め池、掘り割り」工事をして干拓地水田を作ったと考えます。

他に、「中国と倭国」を母国に持った「徐福」とその「子孫」は、数百年に渡って「倭国」の発展に寄与する商品や技術を持ち込んだと思ったりします。

「徐福」について思うこと
“伝説では、「始皇帝」の命を受けて不老長寿の薬を求めて旅立った“ 

また、“3,000人の童男童女と百工を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。”等と書かれています。

私の感覚では、「不老長寿の薬」の薬を求めるとの言い回しは二次的な事であって、本来の目的は、三神山の占領であると思います。

「始皇帝」から「徐福」への援助品が、単に「行って用事を済ませ帰ってくる」という段階ではありません。

行き先を占領して、そこに「始皇帝」の属国を作って来いという意志が感じられます。

「徐福」船団は、「倭国」内に受け入れられて「平原広沢(広い平野と湿地=有明海の満ち潮で覆われ湿地帯となっている平原)を得て王となり」、「倭国」をも占領しましたが中国王朝の属国とならずに「九州島」内独立を維持しました。

私の知識内に「日本」は、「銅文化と鉄文化」が同時に始まっているというのがありますが、「徐福」が「倭国」にもたらした文化と思っています。


1,八代海 … 「音形」読み
(徐福船団の倭国内渡来地と読めます)
〇「徐福」船団内に「徐福、狗邪韓国王」が立体内になって「倭国」内に交わり、「倭国」内「橘湾、八代海、島原湾、有明海」内の「橘湾、八代海」内に集まって(入り)「九州人国」内に収容されて筑紫平野内に移住した。

2,八代海(ヤツシロカイ) … 「音形」読み
〇「始皇帝、徐福」が用意して「狗邪韓国王」を交わった「徐福」船団をつなげきり、
「倭国」内に集まって、「倭国」内の「本島、天草上下島、大半島」内になった「橘湾、八代海」内につながりきる。

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