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「邪馬壱国」同盟国の国々配置図

(本文は、邪馬台国・倭国三十国の比定内音形読みによります)

「倭国」連合国が生まれてから数百年後、中国を統一した「始皇帝(紀元前221~210年)」に東海の三神山に住む仙人から不老長寿の薬を取ってくるからと上申し、

膨大な援助と船団を供与された「徐福船団」が東海に向かって出航しましたが、一度目に失敗しました。二度目の援助航海では、韓半島先端の「小半島、小島」の群島国である「狗邪韓国」を占領し、「狗邪韓国王」を伴って東海の「倭国」に移住しました。

「倭国」内は、「九州人国と狗邪韓国渡来人国」の連合統一で誕生していましたが、「徐福船団」で共に「倭国」に移住した「狗邪韓国王」の下に「狗邪韓国渡来人国」全国を統率し、連合体制であった「九州人国」を従属して「徐福、狗邪韓国王」の「邪馬壱国」倭王国を建設しました。

「邪馬壱国」倭王国内で「倭女王・卑弥呼」が有名です
「魏志倭人伝」内で「倭女王国」と「狗奴国」が戦争中であり、負け続きの「倭女王国」は、中国の「魏王朝」に援助を求めて遣いを出しています。

「狗奴国王」は、「官(王);狗古智卑狗、卑弥弓呼、弥弥」と戦いの勝利段階毎に名前を変えています。

「邪馬壱国(徐福、狗邪韓国王)」倭王国は、「始皇帝」生存中(紀元前221~210)に誕生して「卑弥呼」の死亡した「西暦248年」までの長い期間続きました。

この状況に関して、「邪馬壱国」の国名や「卑弥呼」名内に隠れて、「有明海」の満ち潮に冠水する「筑後川」浅瀬に干拓地を造成し水田を開拓したと読めます。

おそらく中国から持参した農具や土運搬具で、これまで出来なかった造成水田を作り「倭国」内からの感謝と感謝の伝承の元に長年の「邪馬壱国」倭王国が続いたと想像します。

「台与」体制
「卑弥呼」の死は、「邪馬壱国」の滅亡を意味して、「倭女王国」と戦争した「狗奴国」の勝利が、『古事記』文の「伊耶那岐命、伊邪那美命」の誕生で「狗奴国」が統一王国になります。

そして、「狗奴国」が「子淡道之穂之狭別島」となって「大八島国」を制定しましたが、滅亡した「邪馬壱国」の母国王と倭王権を「卑弥呼」と分け合った「台与」が頭角を現し、「邪馬台国」を創設したと思っています。


「邪馬壱国」倭王国 … 長年の維持
私の勉強では、「邪馬壱国」倭王国を長年「成立・維持」させた根本は、「徐福」船団で持参した、時の中国の「金属と百工」による農具開発や「有明海」満ち潮による「筑後川」冠水浅瀬に干拓水田開発、そして五穀の種よる食料増産による感謝と感謝伝承によるかと想定します。

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