竹中直人さんの役者論は人生最大の衝撃かもしれない

ちょうど7年前に読んだこのインタビューは衝撃的だった。何せあの日本屈指の俳優がここまで謙虚で控えめだったなんて。僭越ながらこのインタビューを振り返り、自分にどのような影響があったかを話させていただく。

竹中さんは何を話したか

竹中 (前略)僕にとってはわかりやすい話よりも、そう簡単にはわからない話のほうが好きなんですよね。
――それは実際に役柄を演じてみないと最終的に作品世界はわからない、という一般論的な意味もありますか。
竹中 いや、僕は演じていても役柄をわかったことが一度もないので、いつもわからないままセリフを言っています。役柄のことをわかってセリフを言っている役者さんを見ると、ちょっと信じられない。「僕はセリフなんてわかんない」っていつも言っています(笑)。

役がわからない中で演技するというスタイルは興味深い。逆に言えばそれができるという時点で竹中さんの非凡さを物語っている。「セリフなんてわかんない」で演技に臨むというのは、そもそもセリフを一切頭に入れず、カンペを用いることで刹那の空気を演技に取り入れたマーロン・ブランドを彷彿とさせる(竹中さんはマーロンの根底であるメソッド演技の対極だが)。役をわからずに演技するのは自分をプレーンなところに持って行っていることの証だ。それゆえ逆に奇想天外な役にチャレンジできるのだ。

みんなゲラゲラ笑う。でも絶対、この人たちはいつか笑わなくなるって思っていました。今笑わせていることよりも、ある時期を境に笑わなくなるんだろうなという想いが先に立ってしまって。この人たちはずっといてくれる人ではない、と感じちゃうんですよ。

ここまでネガティブになれるか? というくらい、引っ込み思案だ。そこにはうぬぼれはかけらもない。竹中さんは「お客様は神様です」の域を超えて、「お客様は名状しがたい何かです」という境地にいるように見えてちょっと面白い。

――ではお笑いの舞台、芝居の舞台って違いはあるんですか?
竹中 笑いの舞台、シリアスな舞台と自分の中でわけてやったことがないので、その感覚は、そもそもわからないですね。予算の少ない多いという現場の違いはありますけど、これはこう、こっちはこうみたいな、区別した感覚がないので、みんな一緒でしたよ。今だに自分でも「オレ、役者なのかな?」って思うこともありますしね。何なんだろうって。

この辺りも、竹中さんの中立主義がうかがえる。いつだってその場の感覚で仕事に臨む。柔軟性、瞬発力に支えられたアドリブ力の賜物だと思う。

――“竹中直人”とは何者かって考えたことはありますか?
竹中 わからないですね。興味がない人にとっては、何でもないことじゃないですか。(中略)だから何者かなんて、そんな偉そうなこと言えないです。それは、他人が決めるような気がしますね。自分がこうであるなんて、思って生きられないですからね。

そう、竹中さんは自分が何者かわからないから、役のこともわからないのだ。確かにその通りだ。デカルトが言う通り自分の考えは自分にしかわからないが、自分という存在そのものは他人からの類推でしか認識できない。自分のどんな顔をしているかは筋肉で想像がつくけど、実際にどんな顔なのかは鏡などのフィルターを通さない限りわからない。他者なら観測できるけど、自分を見ることができない、それが竹中さんの人間観だ。何とも哲学的ではないか。

僕は笑わせようっていうよりも、自分が面白いと思うことが一番なんです。だから、お客さんが笑うと嫌で、舞台に立っている人たちを笑わせていました。笑わせて次のセリフ言わせないぞと思って、客席に背を向けていたりしましたもん。なんかお客さんが怖かったんですよ。真剣に見ている人たちも、いつか「こんなこともあったよね」って忘れ去られていくんだろうなって、どうしても思っちゃう。だから僕はまず、仲間に意識を向けるんです。この人たちと何を作れるか。それをたまたま、観客が観に来ているという感覚。観客よりも、そこに集まっている人たちに向けて作品を作ろう、それが原動力でしたね。

さっきも言いましたが、僕はお客さんを楽しませようとか、そういうおこがましいことを思ったことはないんです。まずは最初の観客はスタッフで、その中には笑っている人もいれば、すました人もいる。そんなものだと思ってやってますよ。それで視聴率が取れればよかった、取れなかったらガッカリする。観客が入った、入らなかった。その繰り返しです。でも、その最初の“観客”であるスタッフって、一番生で感じているものなんです。「あいつ、すごい一生懸命やっている」とか「適当な奴だな」とか、わかりますからね。だから、そういう人たちの反応が、自分のエネルギーになってくんでしょうね。それを感じて動いていく。その時代を見ているとかではないんですね。僕にとっての役者って、そういうことだと思いますけどね。

では自分がわからず、客に心を開けない竹中さんは、何に信を置くのか? そう、一緒に芝居をする仲間だ。「何者かなんて、そんな偉そうなこと言えないです。それは、他人が決めるような気がしますね」という考えは、竹中さんが仲間をつぶさに見ていることの証明だ。その観察眼と仲間に対するホスピタリティには竹中さんの当たり役「豊臣秀吉」の面影を感じる。

竹中さんから何を学んだのか

当時、自分は終活に失敗してもがいている状況だったこともあり、竹中さんの演技論を仕事術に生かそうと必死だった。定職に就いた今改めて読んでみると、当時感じていたよりもさらに刺激的で新たな学びを持つことができた。自分はこれからも折に触れてこのインタビューを振り返るだろう。

誰だかわからない世間より気心の知れた仲間を見よ

コミュ障の自分としては、秀吉のコミュ力には常にあこがれるものだ。そんな自分がまず取り組もうと思ったのは、竹中さんのように一緒にいる人の反応をよく見て大事にすることだ。そしてその考え方を取り入れていく。

なんだかわからない「世界」を直接相手にするのは危険である。例えば同じポケモンファンと言っても、単純にポケモンやトレーナーなどのキャラクターを愛する人、コツコツポケモンを手塩にかけて育て上げることに燃える人、戦略を練ってポケモンバトルでの栄光を目指す人といろいろな楽しみ方がある。それらを十把一絡げに捉えることはできない。アンケートなどで具象化してやるのがよい。

「○○ファン」などの大きい主語はモンタージュだ。平均値や中央値は事実に基づいたフィクションとして捉える。それよりも確かにわかるのは周りのことなのだ。一般名詞ではない具体的な誰か。それが竹中さんの心のよりどころだ。

それは周囲におもねるということでは無かろう。メンバーの空気をよくしていくことは部署の成果の向上につながる。同僚の不安や不満を解決することで仕事はさらに効率化される。チーム全体の風通しがよければいいアイディアがすぐに浮かんでくる。ブラック企業はそこを分からずただ数値上の効率を求め、搾取するからダメなのだ。仲間が信頼できない職場はストレスの塊である。

そして、仲間すら満足させられない人が見知らぬ誰かを満足させられるだろうか? これは自分を助けない限り誰かを助けることはできない、というルールの拡張である。画期的な新商品が世間に受け入れられるかは当然不安である。だが作っている当の本人たちが不安しかないのなら、それは必ずボロが出る。だから開発チームはその商品が世間に一石を投じることを信じ、みんなワクワクしながら未知の仕事に挑む。

先入観を持たない

今回改めて竹中さんのインタビューを呼んで思ったことは、この人は自分や役柄に先入観を一切持たない、持つことを完膚なきまでに避けているな、ということだ。「役柄のことをわかってセリフを言っている役者さんを見ると、ちょっと信じられない」と思うのは、「役柄のことをわか」ること自体が先入観であるからだ。それは役をわかっているのではなく、この役はこうだという思い込みに基づいた自己投影である。

いくら想像してみても、当事者にならなければ本当のことは分からない。演じる自分はキャラとは別物であるという一種の諦観が竹中さんの演技の根幹にある。そして実際に演じてみて生まれるもの、相手の反応から生まれる演技は確かに存在する。それを竹中さんは良く知っているのだ。やってみなくちゃわからない、出たとこ勝負を楽しんでいるのではと邪推する。

先入観がものを見る目を歪める例は枚挙にいとまがない。オランダのティコ・ブラーエは当代きっての天体観測の名人だった。しかし、そんな彼の火星の観察記録はどうやっても軌道が円にならない。そこで彼は弟子のヨハネス・ケプラーにデータを託した。ティコの正確無比なデータをまっさらな目で見たケプラーは「いつから惑星の軌道が真円だと錯覚していた?」という前提の間違いに気づき、惑星の軌道は楕円であることを突き止めた。その結果、地動説のモデルの信頼性が飛躍的に向上し、天動説を打ち破るきっかけとなった。量子力学の確率モデルも、量子の位置が確定しているというラプラスの魔の先入観を排して観測結果に向き合ったからこそ得られたものだ。

基礎研究はわからないからやってみようというのがモチベーションだ。数学の定理はそれが何かさえ理解することはできない。だからこそ意外な応用につながる。プランクのように自らの結論に納得がいかず、それを突き詰めたことで革新的な概念を生み出した科学者は多い。わからないまま突き進もうというのは竹中さんの演技に対する姿勢とよく似ている。

自分も今まで経験したことから既成概念を作っていないか、それで諦めていることは無いだろうかとふと考えさせられた。

自分を定義するのは他人だ

そして自分への先入観を持たないことは謙遜につながる。過信というのは自分を生半可に知っているからできるものだ。自分がわからないからこそ、今やることに邪念を持たず集中できる。

そして周りにアンテナを張り巡らせ、その反応を掴むことに長けた竹中さんにはひとつの結論がある。自分が周りをしっかり見て認識するように、自分は周りに認識されるからこそ存在するのだと。

自分が何者かは他人が決める。だから他人への感謝を大事にするという好循環だ。そしてその誰かも、自分の関わり合いがその人を作り出していくのだ。「自分が面白いと思うことが一番」と語る竹中さんだが、それは自己満足では全くない。役を演じること、それにより自分が周囲の期待に応えられることが至上の喜びだろう。

自分では全く気付かないことでも、人に言われて初めて成長を実感することは多い。自分の問題点は誰かに指摘してもらわないと把握できない。他人は自分を見る鏡なのである。

孫子は「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と言った。竹中さんは敵、もとい自分の周囲の人をよく知り、己が自分だけでは認識できないという無知の知により逆説的に己を知った。だから百戦危うからず、引く手あまたな人気者になれたのだ。

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