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「ギャラリーフェイク」に見る、「なぞらえる物語」の魅力

筆者は「ギャラリーフェイク」が好きだ。絵画に対する深い造詣を生かしたストーリーを、細野不二彦先生はリラックスした絵柄で描き出している。その魅力を辿ると、「美味しんぼ」と後期手塚治虫作品の長所を見事に融合している点に気づいた。そしてそれを表現する言葉として「なぞらえる物語」を提案したい。

美味しんぼの掘り下げ力、あるいはビッグコミック的インテリジェンス

やはり掲載誌であるビッグコミックスピリッツの先輩漫画である「美味しんぼ」の影響は計り知れないだろう。同作はバブル期以降の消費社会において忘れられていった、食が持つコンテキストの深みを丹念に描き出している。雁屋哲先生の考えに関しては賛否両論あるが、軽薄になりつつあった社会に一石を投じたのは誰もが認めることだろう。

一流の思いが込められた丹誠こもった料理が、どれだけそれを美味しくするのか、「美味しんぼ」は紡ぎだしている。そして、食の知識を得ることで読者が賢くなるという啓蒙的側面も持っている。細野は「美味しんぼ」の一流に対する熱意を受け継ぎつつ、美術全体にフォーカスすることで、それがいかに作られたか、それが社会でどんな意味を持つのか幅広い題材で描くことに成功した。

後期手塚のなぞらえる物語

そして「ギャラリーフェイク」は、「ブラック・ジャック」や「七色いんこ」といった後期手塚治虫の作品群も想起させる。それは主人公が高い能力を持ちながらアウトサイダーとして生きるという側面だけでない。題材の持つ特性になぞらえた質の高いストーリーを描いているという部分も手塚のDNAを受け継いでいる。

「ブラック・ジャック」はただ手術する漫画ではない。その病気がどんな問題を引き起こすかをストーリーに盛り込んでいる。「七色いんこ」は演劇の名作を演じながら、それをモチーフとした新しい物語をリミックスしている。両者とも、手塚先生の卓越した知識量をフルに生かしている。要するに手塚先生は病気や演劇になぞらえた物語を生み出すことで、メタなコンテキストを漫画に盛り込むことに成功している

「ギャラリーフェイク」も芸術作品が持つバックグラウンドを詳らかにしつつ、それをストーリーの一要素として再構築することで、面白いストーリーを生み出した。

なぜマリアージュが成功したのか

なぞらえる物語を作るには、そのジャンルに対する膨大かつ正確な知識が必要だ。知識に乏しければすぐにネタ切れになる。知識が間違っていればストーリーが成立しない。さらに言えば、元ネタの話を再構築する技量が求められる。下手をすれば既存作品の焼き直し(リメイク)に終わってしまいかねないのだ。それゆえ「なぞらえる」ことに成功した作品は限られてくる。

そして、「美味しんぼ」は食というインスタントなものを題材としているため、なぞらえることが本質的に無理だったと言える。つまり、「ギャラリーフェイク」の成功の理由は美術に対する徹底的な取材という「美味しんぼ」の深みと、美術のバックストーリーを新しい話につなげるという「ブラック・ジャック」の広がりを高いレベルで両立させている点である。

なぞらえることの奥深さ

なぞらえるのは引用とは違う意味を持つ。引用は例えば手塚先生がたまたま見た映画の写真をもとにその作品のタイトルを使った傑作「メトロポリス」を書きあげたことだ。作家がイメージを膨らませるきっかけである。それに対してなぞらえるというのはそれが持つ性質や筋書きを忠実に、時としてそれを逆手に取ったひねりを加えて作品に落とし込むことだ。三国志を底本に現代高校生の戦いを描く「一騎当千」はなぞらえる物語の好例と言えよう。

コミカライズやアニメ化などもなぞらえる物語に近い特性を持つ。ただしこの場合飽くまでも原作に付随するものであり、外れた解釈は許されない。なぞらえる物語は題材を利用して新しい解釈を残すことである。

また、翻案は明確に似て非なるものである。原作に準じる(殉じる)点は同じだが、翻案は作品の世界を移し替えるものである。元となった作品は翻案作品の世界には存在しない。それに対しなぞらえる物語には、そのソースマテリアルが確かに存在し、頻繁に参照される。

小泉八雲は「なぞらえる」という言葉の裏にある呪術性を明らかにした。中学時代の読書感想文で「怪談」に触れた筆者にはその言葉が強く残っている。作者に自由な解釈を許さず、既存の筋書きにナラティブを合わせて再構築する姿勢を持つなぞらえる物語はまさに呪術的なリミックスだ。

果たして新しいなぞらえる物語を持った作品は生み出されるのか、皆さんに問題提起することでこの文章を結びたい。

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