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吹奏楽あれこれ

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吹奏楽に関連したあれこれを書きます。
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#ペリー

黒船の軍楽隊 その19

 1853年7月8日(嘉永六年六月三日)にペリー艦隊は浦賀沖に来航投錨し、7月14日(嘉永六年六月九…

黒船の軍楽隊 番外編 ドラムスティック

 函館図書館が所蔵する「異国人之絵」には1804年9月29日(文化元年9月7日)に長崎を訪れたロシ…

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黒船の軍楽隊 その18

 1854年(嘉永7年)1855年(安政元年)の米英露3カ国との和親条約締結は、外国船来航の活発化につ…

黒船の軍楽隊 その17

 1854年10月14日 (嘉永7年8月23日)に日英和親条約が締結しました。  1854年 3月31日 (嘉永7…

黒船の軍楽隊 番外編 ヘンデルの行進曲

 1854年のペリーの日本来航時には、ヘンデル作曲のオラトリオ「サウル」の「葬送行進曲」が演…

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黒船の軍楽隊 その12

オランダの黒船にかかわる図録は他にもいくつか見ることができます。 ペリー以外の記録 – 2…

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黒船の軍楽隊 その10

 松代藩主真田幸教(1)が松代藩士医師高川文筌(2)と能役者樋畑翁輔3)の二人に命じて作成した図版記録をまとめたと思われる大英博物館所蔵「ペリー絵巻」には帽子・硬貨・傘・農具など様々な物品や、軍楽隊で使用している楽器も描かれました。これが元史料の一つになり、様々な写しが作られました。 黒船絵巻 – 3  大英博物館所蔵「ペリー絵巻」「楽器鳴物兵糧入銀銭銅銭ボタン仐ノ図」(図1)には、金管楽器6種、木管楽器2種、打楽器3種が描かれています。 大英博物館所蔵「ペリー絵巻」

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黒船の軍楽隊 その9

 ペリーは、音楽会や夕食会を開催したり軍事訓練を実施したりして、アメリカ合衆国の優位性を…

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黒船の軍楽隊 その8

 ペリー艦隊が再訪した1854年に応接場の警衛を小倉藩(1)とともにつとめた松代藩(2)の藩主真田…

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黒船の軍楽隊 その7

 ペリーは下田そして那覇でもエチオピアン・コンサートを開催します。 下田での音楽会開催6…

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黒船の軍楽隊 その6

 ペリーは6月3日(嘉永7年5月8日)に箱館を出港し、下田に向かい下田・箱館開港に伴う遊歩区域…

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黒船の軍楽隊 その5

 3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約(神奈川条約)が締結し、1年後に開港することとなった…

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黒船の軍楽隊 その4

 日米和親条約の締結が近づいた1854年3月27日に旗艦ポータハン号を会場にエチオピアン・コン…

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黒船の軍楽隊 その3

 1953年のペリー退去後10日に将軍家慶が死去したことや異国排斥を唱える攘夷論が高まる等、日本国内情勢が混乱していることを知ったことが要因なのか、ペリー艦隊は通告していた日程を早めて再び浦賀に来航しました。 半年前倒しで来航 1853年7月17日(嘉永6年6月12日)に横浜小芝沖から琉球経由で香港に向かったペリーは、江戸幕府に示した1年後という回答期限を待たずに、およそ半年後の1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に浦賀に再来航しました。それも、前年の4隻を大幅に越え

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