系統樹に鋏を

枯木枕様「となりあう呼吸」シェアードワールド企画、応募作品です。落選作を公開しても良いそうなのでこちらに。なむなむ。


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 群れから探した鍵を差し込む。押さえられない錠が鎖にぶつかって喚くのを無視して手を回すと、逆さのU字が鈍く飛び出た。錠の側面、縦に連なる数字はいつも変わらず一、二、三。これは飾りだけど昔は決められた並びに揃えて開ける鍵もあったらしい。こんな固くて小さなものを回すと思うとぞっとする。ノブに巻かれた鎖を外して重い扉を開け放し、僕は展示室へ足を踏み入れた。
 窓のない部屋は常に湿り気に満ちている。手探りでスイッチを押し込むとビカビカと耳障りな接触で明かりがついて、部屋の中央にたたずむ二つの直方体を照らした。
 台座の上、全面ガラス張りの中に収まるのは一体の人間。
 あの姿ならなるほど、小さな数字を揃えることもできるだろう。片方の指はすらりと細く小さな桜色の爪が乗っている。もう片方の指は節が目立ち四角に似た爪がついている。どちらも左右五本ずつ、合わせて十本。指だけに限ったことではない。ぶつけても力をかけても崩れない、もう誰も見たことのない完全体。僕たちと似ているのにまるで違う人間は、毎日見ていても妄想をかき集めて縫いあげた産物ではないかと疑ってしまう。
 誰もそう思わないだろうか。僕は支給されたぶかぶかの手袋を取り出して、履き口の端を咥えて手を入れた。五本目と六本目の指はまとめて一つの穴へ。きちんとはめられる人の方が少ないだろうにいつまでも五本指の名残にすがるのは、代替案がないからなのか希望を捨てられないからなのか。
 前者であればいいと思う。生物が形を変えるのはすべからく生きのびるためでなくてはならない。万が一生存が困難になってもそれは力を蓄えるための暫定で、あの頃が良かったなんて過去を望むのは間違っている。そうだろう。だってそうでなければ、今の僕たちをどう説明できるのか。
 ガラスの箱の周囲には銀色のポールが四本ずつ置かれ、それぞれ僕の腕ほどもある紐で繋がっている。一辺の紐を外して鍵を探り、台座の蓋を開けて配線が絡まる中で電流のスイッチを押した。それ以外に触れないよう慎重に蓋を閉めて立ち上がる。この手袋は電気を通さないと聞いているけれど、不良品でない保証はどこにもない。それにすっかり丈夫だったとして僕が守られることとはまた別の問題だ。よろけたら腕一本では身体を支えられず、運よく助かったとしても外の仕事にまわされ煙や暴力の脅威にさらされる。(そもそも助かったところで運がいいと定義できるのか、と考えるのはまた別の問題である。)ポールの境界線を越えて紐を戻し、もう一度同じ作業を終えて僕はほっと息を吐いた。
 これで開館準備は完了。
 入り口の右側に置かれた椅子に腰を下ろすと、座面がぐにょりとした。立ち上がりながら尻を触ったが形は変わっていない。椅子を見ると敷き詰めた布が歪んでいた。昨晩館長が来たのだろうか、苦手だから会わないのは嬉しいけれど勝手に触らないでほしい。昨日は閉館間際のひと悶着で片付けが要って、ついでに椅子も掃除して座面を整えたからよく覚えている。家にあったボロをかき集めただけだったのに、いつの間に気に留めるようになったのだろう。愛着と呼ぶにはあまりに幼い。僕は手で丁寧にしわをなくしてから座り直した。
 ごよん、ごよん、と時計が鳴く。
 始まりを告げる古ぼけたそれは整備をして螺子を巻けばいつまでも動くらしい。でもそれをできる人がいなくなるのが先だろう。そのうち教えると館長が言っていたことすら随分前で、僕に受け継がれることはきっとない。
 初めは僕がここにいる意味はあるのかと思ったが(存在意義云々ではなく、無駄な人員を雇う金はどこから出てくるのかという興味の意味で)展示物の希少さも相まってか人が訪れない日はなかった。何かしらの感情を呼び起こす、これはある種芸術の類いなのだ。それが高じてほとんど丸一日過ごしていく人もいれば、触れようとする人や暴れる人もいる。そういう時、人々の眼は決まって底知れない真っ黒だった。
 僕は視線を合わせないよう気をつけながら殊更注意した。いつだって彼らは唐突なのだ。何度もこちらを見たり忙しなく動き回ったりする人は何もしない。(せいぜい僕にくだらない話を持ちかけるくらいだ。)危ないのはぷつりと糸が切れる人。寸前まで熱っぽく見ていたと思ったら、はたとガラスに手を伸ばしたりナイフを振りかぶったりする。
 館長が気にしているのはそれらによって部屋が荒らされたり、例えば螺子巻きも含めてその他仕事が増えることで僕が――比較的見目も良く破損の少ない従業員がうっかり崩れることだった。次を探すのは手間がかかるのだそうだ。(頑丈なガラスに守られた人間に害が及ぶことはあり得ないので、その点については懸念の欠片もないらしい。)
 そういうことを教えてくれたのはチエリだった。僕よりずっと前から働いていて入館受付その他全てを担当している彼女は、結局自分のことしか考えてないのよと続けたが、それは人のほとんどに当てはまる。自分でも他人でも、守るには何もかもが足りないのだ。かく言う僕も下半身が半分もないチエリよりよほど動けるのに、この部屋以外には手を出さない。チエリが金を受け取ってこの部屋への来訪者を告げるベルを鳴らすまで何もしない。
 静かな部屋で呼吸の音がする。心臓の動きが身体に響く。ここで働く前は命に音があるなんて知らなかった。いつだって耳につく騒めきや煙に、この身体の中で音がしているなんて思いもしなかった。近くて遠い、ガラスの向こうにいる人間。僕でさえこんな音があるのだからきっとあの中の音はもっと力強く、整って澄んでいるのだろう。そうでなければあの形は保てない。違うかな。僕は誰ともなく話しかけるように物思いにふける。それは何度繰り返しても想像の及ばない世界の出来事だった。
 びい、とベルが二度音を立てた。気持ちばかり背筋を伸ばして来客に備えると、やがて姿を現したのは腹がぶよぶよの男と肉付きのない少女だった。どこかの劇場のオーナーと主演女優、工場の持ち主と目をかけられた労働力。何にせよ金や打算というありふれた仮初めで繋がった、小さな町ではそこそこの金持ちとそれに付く像が透けて見えた。
 僕が頭を下げたのには目もくれず、二人はガラスの前に立った。男は腹を震わせて息を吐きながらいたく感動したような素振りを見せる。少女は視線を人間に留めたまま動かなかった。呼吸すら忘れたようにも見えたし、何も見えていないようにも思えた。男は熱っぽい視線を絡ませながらガラスを周っていたが、やがて飽きたのか部屋を出ていった。男の靴音までが収まると、初めて少女がかすかに身じろいだ。
 知らずと視線をとられた一瞬、全ての音が止んだ。
 ふらり、と。引かれたように少女の細い手が前に伸びる。つられた足が前へ踏み出す。僕は椅子を倒す勢いで立ち上がって少女を横から突き飛ばした。足がもつれた細い身体は鈍い音で背中から倒れこむ。小さく咳き込んで、少女はそのままぽかんと口を開けた。
 やってしまっただろうか。体勢を直してからそっと窺うと、大きな目が瞬く。少しほっとして一応ごめんと謝っておいた。腕を引っ張ったり足を払わなかっただけ感謝してほしい。取れたり変に潰れたりするから僕だって嫌なのだけど、こうやって唐突だから間に合わないことが多いのだ。
 少女はゆっくりと起き上がって首を振ると、腕を上へ横へと伸ばしてから頷いてみせた。謝罪の返事だと気づいて僕は椅子の方へと一歩下がる。少女の薄い唇が開いて、真っ黒な口腔が覗いた。
 どたどた忙しい音と汚い声がその動きを遮る。走っているらしい男が唾を飛ばして叫んでいるが言葉は聞き取れない。少女はまた静かに首を振って、まるで慌てることなく緩慢に膝を寄せてから立ち上がった。男は入り口より数歩手前で前屈みになり、ぜえはあ煩く呼吸をしている。少女が歩き出して僕を通り過ぎる一瞬、気のせいほどに動きを緩くした。
 呼ばれたの。
 唇がかすかに弧を描く。声が快楽を孕む。え、と聞き返した時には、少女は沓摺を跨いでもう一度も僕を見なかった。
 
 部屋に入った僕が真っ先に椅子を見ると、いつものように布が歪んでいた。間隔をおいて継続的に起こっている現象。初めは館長かチエリの仕業だろうと気にしていなかったが、回数が増えれば二人には理由もタイミングもないと気づく。チエリは嫌がらせの前に口が出るし、いたずらもその場で終わることしかしない。館長は月に二、三回しか現れず、わざわざこの椅子に座ったりしない。存外綺麗好きなのだ。そうして頭に住み着いた違和感は毎朝の日課を増やしてしまった。最近は時計も遅れっぱなしでいい加減館長に伝えた方がいいかもしれない。
 手袋をしようと口を開くと、喉に空気が引っかかった。咳払いをするとますます粘膜をひっかかれて激しく咳が出る。鼻から空気を逃がすこともできず、喉が閉まって生理的な涙が滲んだ。
 うえ、と喉がなる。どれくらいそうしていたのか、ようやく咳が収まった頃には弛緩した身体がしゃがみ込んでいた。目を閉じて細く長く息を吐く。ついに喉も崩れたのか、今日は煙がことさら濃いのか。面倒だからチエリが聞きつけていないといい。車輪の音がしたら立ち上がろうと耳を澄ませて深呼吸を繰り返していると、ふと、小さな音がした。細く鋭く、遠鳴りのように耳奥へ飛び込んだ音が尾をひいてしぼんでいく。
 は、と僕は瞼を上げた。
 音が消えた。静寂の音も僕の身体の音も、全てが止んだ一瞬を縫って生まれた虚空が膨れ上がる。視界の明かりが揺らいで顔を上げると、ぬるりとガラスを越えた人間が足裏を床に着地させていた。肺へ流れた空気はいやに冷たい。尻が床についた感触がした。
 足元から頭の先までずれることなく伸びた身体。指の一本まで神経の詰まった動き。ひとつの綻びもないきめ細やかな皮膚。脈打つ命は正しく生物の形をしていた。二人の後ろのガラスから透明な空気が溢れている。街中より遥かに綺麗なはずの部屋の空気をぐにゃりと押して、僕に伸びたそれは喉で詰まった。
 同時に時計を見てから顔を近づけあった人間は、紅い唇を揺らして微笑み合う。きらきら散った笑い声は水の中にいるようにぼけて聞こえた。椅子に向けて踏み出された脚の遥か上、四つの宝石が僕を捉える。今ようやく気づいたように口をはくはくさせる僕に瞬くと、二本の腕がためらいなく差し出された。少女の高揚した頬が横切る。呼ばれたの、と誰かが耳元で囁きを落とす。
 ああ――。
 きっとみんな、惹かれたのだ。あまりに神々しくて、あまりに人とは離れていて。向けられた指先が誘うように上に曲がる。それを辿って肩先に、鎖骨に、首筋に、視線が自然と昇っていく。再び出会った四つの宝石は、慈愛をたっぷり湛えていた。僕は落ちていた重い手を持ち上げる。似て非なるもの、色の違う指先と同じ高さになったところで――僕は二つのそれを払った。
 乾いた音が空気を割る。視界一面に広がった赤が散り散りになって落ちる。手に、指に降ったそれはほのかに温かかった。ああこれが、これがきっと、僕たちとの決定的な違いなのだろう。
 本当は分かっている。手袋の事実がどうであれ、僕たちは進化の途中なんかではない。木が根腐れを起こしてじわじわ死んでいくように生物として死に向かっている。指や手が崩れなかったことにほっとして、僕は慣れた空気を吸い込んだ。
 あれらもそれを分かっていた。だからこその深い慈愛で、けれど僕は見てしまったのだ。幾重にも包まれたやわらかなその奥に、小さな愉悦が揺らめくのを。
 それはおぼろげな記憶の昔に身体を舐めまわした、あるいは今も街のそこかしこで投げ続けられている色によく似ていた。自分たちが優性なのだと固く信じて疑わない目。別にそれが事実でもいい。まだ運よく崩れていないだけ、そのうち道端で掃除人に集められる身体。だけどたとえどんなものだったとして、僕のそこに意味を持たせていいのは僕だけなのだ。
 ごよん、ごよん、と時計が鳴く。
 開館の準備をしなければいけない。僕は落ちていた手袋を拾って、人間の収まったガラスのスイッチを入れるために立ち上がる。赤い指先をなめると錆びた味がした。

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 応募しておいて、というか書いておいて失礼ながらSFというジャンルを読むことが少なく(はっきりと覚えがあるのは小学生の頃に星新一を読み漁っていたくらいです)ツイッターでふとお見かけして、こんな企画もあるんだなあ面白い、20分くらいでさらっと読めるらし…え、全然さらっと読めない…となりながらも引き込まれて読み直したりしながら書き始めていました。書き終わってみてもSFとは…? みたいなぼんやりで、実はSFではないかもしれませんが、それはさておきあまり書かない雰囲気のお話が書けて楽しかったです。
 素敵な小説と企画をありがとうございます。

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