機会を奪わないこと

教員になって今年で6年。まだまだ期間は短いけれどたくさんの生徒と接してきて、ようやく慣れてきたかな~と思うけれど、あれこれくよくよ考えて、もやもやして眠れなくなる時がある。たぶんこれから先10年、20年と経験を積んでもこの癖はなくならないような気がするので、教育って本当に奥が深いな~と思う今日この頃。

最近あらためて「機会を奪わないこと」って大切だよな~と思う。「奪う」っていう言葉はどこか暴力的(「奪う」と書くとジャイアンがのび太からおもちゃや道具をひったくるイメージをわたしは勝手に持ってしまった)だし、日頃からモノに囲まれている日本人であれば「奪わない」というのはなんだか当たり前のように感じるけれど、これって実は教師にとってかなり難しいことなのでは?

まず「機会を奪う」ってどういうことなのか少し考えてみた。
例①学校行事
体育祭の時に生徒のためだと思って教員側であれこれ決めて入念に準備、生徒に指示を出して動かす。忙しく動いたおかげで体育祭自体はスムーズに進んで大成功!片付けまで終え、汗をかいた後の打ち上げで飲むビールはうまい!!
例②英語の授業
授業の準備に時間をかけ、教科書を読みこみ、先回りして細かい知識まで調べておく。黒板を使って丁寧に説明。生徒は楽しそうに聞いてくれた!今日の授業は大成功!家に帰って飲む酒はうまい!!

私も含めて教師という人種は生徒のために自分を犠牲にして働きがちだし、色々とやってあげたいと思っている。でも最近思うのは、上の二つの例で成長しているのは生徒ではなくて教員だよなぁといういうことだ。学習がどの程度定着するかを研究したアメリカの研究所によるラーニングピラミッドというものを参照してみる。(私自身詳しくは読んでいないのでうわべだけ。。。)

ラーニングピラミッド

上に挙げた2つの例でも、定着率の高い活動を行っているのは生徒でなく教師。知らず知らずのうちに生徒の成長の機会を奪って自己満足しまっていたのである。。。

生徒が運営して体育祭がスムーズにいかなかったとしても、うまくいかなかったことから学ぶことは絶対にあるし、授業中に頑張るべきは教師よりもむしろ生徒のはず。(教師が頑張らなくてもいいと言っているわけではないです!もちろん!)

これからの時代はよくVUCAな時代(移り変わりやすく、あいまいで複雑、不確実な世界)と言われる。10年後、20年後の世界がどうなっているかは誰にもわからない。もちろん教師も。
そうした世界を生きていく生徒を預かっている身としては、みんなにはできるだけたくさんのことを経験してほしい。大切なのは偏差値ではなく経験値だ!(私が勝手に尊敬している先生が言っていた言葉)
教える(教師)ー教えられる(生徒)という関係性は限界を迎えようとしている!これからは生徒も教員も一緒になって悩んだり、立ち止まったりしながらいろんな経験を積んでいくことが必要だ!そのための機会を教師が摘むことは許されない。覚悟をもって、生徒と伴走することこそ、今の教師に求められていることではないか。
学校として、教師としての立ち位置をあらためて考えていかないと。

機会を奪わないように、自戒を込めて。

今日はここまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?