見出し画像

『続・名もなく貧しく美しく 父と子』の衝撃


『続・名もなく貧しく美しく 父と子』
1967年東宝
脚本・監督:松山善三
主演:小林桂樹、北大路欣也、内藤洋子

 松山善三監督の名作『名もなく貧しく美しく』は忘れえぬ映画である。
 その続編『続・名もなく貧しく美しく 父と子』は鑑賞したいと長年望んできた作品だったが、なかなかその願いが叶わずにきた作品で、知人の映画コレクターのご厚意でようやく鑑賞することができた。実に40年もかかったわけである。

 観ることができたものの、前作の印象と全く異なる壮絶な映画であった。
 続編を観て、正編をもう一度観ようなどという気持ちにはとてもなれないほど、作風もテーマも違っている。

 この映画、前作と同じ脚本監督なので油断していた感があった。
 前作で言及し得なかった社会問題のリアリズムを物凄い勢いでぶち込んでくるって感じで、前作のイメージもトーンもここにない。

 当時、続編を期待してきた人にとっては衝撃的だったと思う。
 映画は正編の結末から10年後で、登場人物も世界観も全く同じである。
 出演者も主役の聾者夫婦の子どもが正編の子役から北大路欣也の青年に変更されているだけで、他の出演者は変わっていない。

 障がい者が生きにくいのは単に障がいがあるからではなく、健常者の嘲りに順応していくことで自分を偽らなければならないという苦しみが二重に加わるからだと映画は解く。

 そして、そこには個人の幸福を各々が求めるがゆえに、健常者の障がい者への差別が生まれ、障がい者もその社会に順応しなければならないために、自らが同じ立場の障がい者を排外する道も選んでしまう。

 正編の障がい者は社会や差別の犠牲者であり、常に障がい者側に「正当性」があるとしてきたいかにも「健常者」視点で描いていた美談はここにきて存在しない。
 ここには多くの反発も予想されたであろう事は容易に想像できる。
ハンナ・アーレントがユダヤ人もまた反ユダヤ主義者になりうるということを指摘したのと同じ構造が障がい者の世界に持ち込まれているからだ。

 松山善三は前作での訴えかけは変わってはいない。聾者にとっての生きにくさや悲劇を生むのは、社会のあり方であるというメッセージ。その社会が聾者を理解し、当事者性を持つことができれば、自ずと社会システムが改善されてゆくであろうという希望である。
 しかし、前作の希望を託す「美しい物語」では不十分であったとばかりに続編の『父と子』はどこまでも冷酷に希望を持たせる余裕がないのだ。
 松山善三は正編の空前絶後の成功に満足はしなかったのであろうことが、この続編からは窺える。

 そして、正続編ともに訴えかけることは、経済的豊かさや貨幣経済の恩恵は決して人間の幸福には寄与しないという思想だ。
 貧困の問題があるからこそ、富の獲得のために、障がい者が同じ障がい者を不幸に陥れることさえ躊躇しないという冷徹な観察がそこにある。

 内容的におそらくDVDなどの発売は不可能だと思う。
 優勢遺伝、劣性遺伝という概念、先天性のろう者は子どもを持つ道を選んではならぬという視点、聾者が聾と関係する遺伝子を「自らのなかに悪魔が住んでいる」と表現し、その悪魔との戦いが「子孫を持たない」という選択であるなど、ここはリアリズム追求の限界であろうと思う。
 実際の研究者を劇中に登場させて、解説させるなど、そこには現実に向き合う真摯な態度があるとはいえ、下手をすると優生保護法を裏打ちしかねない危険性がここにはある。

 いずれにせよ、鑑賞の難易度が高い作品であるわけがどこにあるかはよく理解できた。

 辛すぎる問題作であるにしても、観ないよりも観た方が良かったということには変わりはない。

 仕事でもなければ、二度目を鑑賞する気力はとても持てない。
 ぼくとしては珍しい作品で『ジョニーは戦場へ行った』同様のトラウマ映画の一本になったような気がする。

2024年1月3日
永田喜嗣

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?