見出し画像

『サウンド・オブ・ミュージック』マリアが見た、総統の姿とヒトラーの姿


『サウンド・オブ・ミュージック』
マリア・フォン・トラップ著
谷口由美子訳
1997年
文溪堂

【マリアが見た総統の姿とヒトラーの姿】

 ミュージカル映画の不朽の名作とされる『サウンド・オブ・ミュージック』の主人公、マリアのモデルとなった、マリア・フォン・トラップは、『トラップファミリー合唱団物語』という手記を1949年に出版している。これが映画の原作となったものだ。

 1938年のナチスドイツのオーストリア併合によって、愛国者であったフォン・トラップ夫妻は辛い想いに駆られることになる。
そんな中で、夫妻はミュンヘンへ旅行へゆくのだが、そこで、ナチによって認められた「ドイツ純正芸術」のための美術館「ドイツ芸術の家」を見学する。

 正面のエントランスには銀の甲冑を着たアドルフ・ヒトラーの肖像画掲げてあり、訪問者はここで「ハイル・ヒトラー!」と敬礼をしなければならなかった。

 夫妻はそれに従わず、「ドイツ純正芸術」に嫌気がさして、美術館内のレストランで食事をすることになる。

 ところが客が入っているレストランは物静かで、誰もタバコを吸ってもいないことにマリアは不思議に思ったという。

 注文をとりにきたウェイターが二人にそっと教えたのは、隣のテーブルにヒトラー総統がいるということだった。

 総統は7〜8人のビールを飲む陽気な親衛隊員と一緒にいて、ラズベリージュースを飲んでいた。
 総統のテーブルは「バカ話し」で盛り上がっており、みんなが大声で笑って、特に総統は下品さを隠そうともせずバカ笑いをしていたのをマリアと夫は目の当たりにするのだ。
 とうとう、ヒトラー総統はバカ笑いが止まらず、椅子から転げ落ちて、床に仰向けに倒れて両手をバタバタしていた。

 その光景を見たマリアは、美術館のエントランスにあるヒトラーの甲冑姿の肖像画と全く違うことに驚き、その男の品のなさにがっかりしたと書いている。

 これを読んで、多分誰もが驚くだろう。
「ヒトラー? いや、そんな奴だよ」と思う人は少ないのではないか。

 甲冑姿の肖像画のヒトラーと、バカ笑いのヒトラーの姿に感じた、マリアの驚きは、そのまま我々の驚きにもなる。

 そう、我々が知っているヒトラーの姿は終戦までに残された写真や記録フィルムのヒトラーであり、戦後数多く造られたヒトラー映画のヒトラーである。

 ヒトラーを描いた劇映画のヒトラーは、終戦までのニュース映画や記録映画を参考にしているだろうから、それと同じだろう。

 だから、映画に出てくるヒトラーはマリアが「ドイツ芸術の家」のエントランスで見た甲冑を纏ったヒトラーの肖像画のヒトラーである。第三帝国の権威と威容を表す総統アドルフ・ヒトラーの姿だ。

 考えただけでも、何かおかしい。

 そう、我々にとって、よりヒトラーらしいものは親ナチであっても、反ナチであっても、ナチスが作ったヒトラー像から逃れることがないわけだ。
 
 ヒトラー表象は常にナチズムが期待した「偉大なるフューラー」の姿となる。

 これはアイヒマン親衛隊中佐やメンゲレ親衛隊医師のイメージでもそうだ。
 映画では悪辣で狡猾なアイヒマン、紳士ぶった皮肉屋のサディストのメンゲレ。絶えずそういうイメージだったはずだが、戦後の彼らはそうではなかったということがわかっている。

 でも、ヒトラーもアイヒマンもメンゲレも、他のイメージで考えることも描くことも、我々には難しいわけだ。

 これはおかしいと、わたしは思う。

 我々は、彼らがある一定のイメージであることを期待ししている。

 バカ笑いのヒトラーと威厳あるヒトラーを同時に描くということは、おそらくバランスを欠くであろう。それでは観客の期待には応えることはできない。
 だから、ナチズムが用意したヒトラーを活写して見せることになる。

 案外、チャールズ・チャップリンやエルンスト・ルビッチ、メル・ブルックスが描いた「あり得ない」バカで滑稽なヒトラーが本当なのかもしれない。

 奇をてらった演出によるバカなヒトラーこそが、フォン・トラップ夫妻が見たヒトラーに近かったのかもしれない。

 この本のマリア・フォン・トラップの記述に驚いた自分を発見した時、わたしは自分のなかに住まわされてるナチズムの効果に複雑な気持ちにさせられたのである。

 気付かぬところで、ナチズムは未だ死することなく生きているのだ。

 深く考えなければならないテーマだと、わたしは思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?