馬鹿は罪じゃなくて、罰だもの

はじめに

タイトルは「化物語」より戦場ヶ原ひたぎの言「無知は罪だけれど、馬鹿は罪じゃないものね。馬鹿は罪じゃなくて、罰だもの」の引用をしています。この世のありとあらゆる、人間のマイナスな感情、例えば、嫉妬、羨望、憤怒などなどこれらすべては無知であること、馬鹿であることから生じていると私は思っています。私は無知≒馬鹿という前提で話します。
だから我々は知る努力を怠ってはいけない。絶えず知ろうとし続け、馬鹿であってはいけないと思っています。

本文は紳士そうなおっさんが一方的にA君に話しているような形式にしています。

君の前に箱が二つあります

君の前に箱が二つあります。一つには…まあ、あたりでいいか、あたりが入っています。君がどちらかを選んだ時、あたりを引く確率はなんだい?

そう、その通り、50%だね。半分の確率で君はあたりを引くことができる。これは至極当然のことでここに疑問をさしはさむ余地はないはずだ。

では私が左手に持っているこの箱にはあたりが入っていないと君は知っている。そして君はあたりをひくために最善の行動をする。この二つの条件がそろったときに君があたりを引く確率はなんだい?

当たり前だね。100%だ。数学的にどうなのかという話は無視するよ。僕は数学には詳しくないからね。君は知っていればはこのあたりを確実に当てられるんだ。そうだね。でもあたりがどちらに入っているか知らない第三者…例えばA君としようか。A君から見たら、君は50%の確率であたりを引いたように見える。実際は100%の確率で引いているのにも関わらずだ。

ここに問題が発生するんだよ。1回ならただ50%の確率を引いただけだと、A君も納得するだろう。ただこれが50回、100回となるとA君はおかしいというはずだ。何かがおかしいというはずだ。

僕はここに知ることの重要性が隠れていると思うんだよ。今は極端な例で、100%私の左手の箱にあたりが入っていない例だったね。これが70%の確率で入っていないのだったら、君は右の箱を選び続けるだろう。ああ、どちらにもあたりが入っていないことはないこととするし、どちらにもあたりが入っていることもないとするよ。そうするとおそらくだけれど、右手の箱には70%の確率であたりが入っているはずだ。数学が苦手だからわからないけど。

そうなったとき、A君はあたりをあてる競争を君と200回くらいしたら、総計ではほぼ必ず負けるはずだ。まあ勝てる可能性もあるだろうけど、ごく小さいだろう。

これと同じことが現実世界でも起きているんだと思うんだ。こんな箱が二つどころじゃない規模感でね。100じゃ足りないかもしれないし、1000でも足りないかもしれない。得られる情報が、嘘かもしれないし、「もしかしたら入っていないこともある」みたいな曖昧な情報かもしれない。それでも似たようなことが現実世界で起きていると僕は思うんだ。

それが嫉妬をうみだす

それが嫉妬を生み出す原因だと思うんだよね。まず前提として僕は別に嫉妬をすることが悪いといっているわけではないことは事前に知ってほしいな。別に悪いことではない。人間らしい感情だと思うし、人に迷惑をかけない分にはいいと思う。ただ僕はその感情が嫌いなんだ。胸がきゅーーっとなって、非常に苦しい気分になったりいやな気分になる。僕はそうなるのが嫌なんだ。ほかに嫌だと思うかもしれない君のために、僕は今話してるんだ。

話がそれたね。閑話休題っと。無知であることが、嫉妬を生みだすんだ。まず嫉妬ってなんで起きるんだろうねってとこから考えよう。きっと「私よりもいい思いをして…」というような感情から発生するものだと思うんだよね。それは人と比べるからこそ生じるものだと思う。私と同じようなのにあの子は付き合えたとか、同じ練習量なのにあいつは俺よりもうまい。などなどやっぱり他人と自分を比べたときに嫉妬って起こるような気がするな。

だから他人と自分を比べるのをやめようっていうつもりは毛頭ないし、ある種いいことだと僕は思っているよ。自分の立ち位置を見極めるのは大事なことだと思う。ただそこに情報が足りないんじゃないかと僕は思っている。

比べるときの情報が足りないんじゃないかと僕は思っている。例えば、君は卓球部だったね。卓球部で同じ学年、同じときに始めて、同じように練習しているB君がいるとしよう。B君はもうレギュラーだけれど、君は補欠だ。本当かどうかは知らないけれど、そういう仮定をしよう。

君はB君に対して、嫉妬をしている。「どうしてあいつばっかり」そんな思いが君の胸中を支配している。この時君が目を向けているのは君とB君の同じところと結果だけだ。君とB君の同じところは年齢と、開始時期と、君がみている練習時間だ。

実はB君は君が帰った後、一人で練習しているし、帰ってからもうまくなるために動画を見たり、戦術の本を読んでいたり、体力トレーニングをしていた。そうしたとき君はどう感じる?きっと以前のような嫉妬は覚えないんじゃないかな。君とB君の間にある歴然とした差は、勝手に生まれたものではなくてB君が勝ち取ったものだと君が認識できたからだ。君がB君の努力を知ったからだ。

不満そうだね。なになに、成程、実際には本当に全く同じ練習しかしていないのに、自分よりうまい奴がいるのか。そして君はそれに嫉妬していると。実際的な例が出てきて、いいことだ。一見確かに不公平に感じるね。しかしこれも君が知らないからだと僕は思うよ。

その子に練習の時、意識していることを聞いてみるといい。何か考えていることや大切にしていることがあるかもしれない。なくてもじっくり観察すると、何か自分とは違う工夫や練習の仕方があるかもしれない。それでも見つからなかったら、それは彼が小さい時からはぐくんできた、能力のたまものかもしれないね。僕はあまりこの言葉は好きではないのだけれど、才能ってやつじゃないかな。

それはずるいじゃないかって?あはは、面白いことを言うね。君もその時期があって、その時間で何かを身に着けていたはずだよ。同じ時間を過ごしたんだ。同じようなものを身に着けているはずだ。

へぇ、小さい時はよく絵をかいていたのか。だったらしょうがない君は小さい時に絵をかいていた。彼はその時間運動をしていた、その差が表れているのだろう。ほらそう考えると、嫉妬の感情が薄れてきたのを感じないかい。それならしょうがないかというような気持になるんじゃないかな?

それならよかった。それでも嫉妬を感じるという人がいたら、まだ知ろうとする努力が足りないのかもしれないね。状況が分からないから確かなことはいえないけれども。でも僕は嫉妬という感情は知らないというものから出ていることだと思うよ。

恐怖や不安も無知から生まれる

同様にして恐怖も無知から生まれるんだと思うんだ。君が恐怖に思っているものは何かな?わからない?成程じゃあ暗闇を例に挙げようか。小さい時…もしかしたら今もかもしれないけれど、暗闇は恐ろしいと感じたことはきっとあるよね。

それはその暗闇の中に何があるかわからないからだ。大人になって暗闇が怖くなくなるのはきっと暗闇の中には何もなくて、昼間見る景色と同じものがあると知っているからだね。小さい時はそれが分からないし、わかっていてもたくましい想像力がその中にあるかもしれない可能性を考慮してしまって恐怖を感じるのだと思う。

挑戦が怖いのも同様の理屈じゃないかな。何が起こるかわからない。失敗するかもしれない。未知のことをするのが怖いんだ。けれど先達の話を聞くことで幾分かその気持ちは緩和される。だから恐怖や不安も無知から生まれるんだね。

馬鹿は罪じゃなくて、罰

こう考えると馬鹿であることが罪であると僕が主張する理由も分かるんじゃないかな。僕の前提は馬鹿≒無知ということと、嫉妬などの感情は苦しいものであまりしたくないものだという前提だ。この前提が崩れている人から見ると僕の主張は全く意味がないものになるから、確認しておくよ。例えば嫉妬することが楽しい人には意味の分からない主張になるんじゃないかな。

無知であること、知ろうとしないことこれらは苦しい嫉妬などの感情を引き起こすんだ。これは無知であることが引き起こした罰といえるんじゃないかな。

馬鹿は罪である。という言葉をさくっと分解すると、「無知であることはあってはならないことである」ぐらいの意味に軽く訳せるんじゃないかな。ここにおける罪の意味はおそらく法律を犯したことまではいかないで、よくないこと、人間として間違っているぐらいの意味合いだと僕は解釈しているよ。

そう考えると、馬鹿は罪ではないと僕は思うんだよね。これは僕の考えで世間一般の考えでないことは重々承知しているし、むしろそれている考えであることも承知しているんだけど、人間は人間に迷惑をかけなければ何をしてもいいと思っているんだ。

殺人も、強盗も、強姦も、窃盗もこの世に存在するありとあらゆる悪い行いは人に迷惑をかけているから駄目だと僕は思っているんだ。その僕の考えからすると無知であることが誰かの迷惑になるだろうか。おそらくならないだろう。なったとしても迷惑の閾値は超えないだろう。ならば無知であることは罪ではないと僕は考えるね。

だけど馬鹿は罰ではあるんだね。無知であれば、苦しい嫉妬、知識がないことで得られたはずのものが得られない。うまく助けを求められない。これらが馬鹿には課せられるんだ。これを罰といわずして何と言うんだろうね。

まとめ

馬鹿は罰じゃなくて、罪という言葉の意味が理解していただけたかな。まあ理解してもらえなくても、全然いいんだけど無知はよくないなって思えてもらえれば御の字かな。

それが理解できた僕たちがするべきことは、無知でなくなることだ。つまり知識を集めること、収集することだ。いったんどうやればいいのか見当もつかない人もいるだろうね。僕だって模索中さ。いい方法があるなら教えてほしい。

でも僕はとりあえずニュースを見て、本を読むことにしているし、いろいろな経験を積極的にしようとしているよ。しかもジャンルにこだわらないでやることが大事だと思っているんだ。僕たちが集めようと思っているのは、知識だ。何かに対する対抗策じゃない。つまり確固たる目的がないんだ。茫洋たる知識をがむしゃらに入れている作業が必要になるんだ。ジャンルにこだわる暇はないと思っているんだ。だからと言って躍起になる必要もないと思っていて、自分の身の丈に合った文章を読んで、少しずつ知識をためられたらそれが幸せなんじゃないかな。

それがいつ役に立つのかって?ははっ、面白い含蓄のある質問だね。

それは君の罰だと僕は思うよ。

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