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#MeToo と、ダブルスタンダード。


もし、
身近な人が性暴力の加害者だったら
二次加害の側に立っていたら
そのことを知った時、どうしますか?

#MeToo や、
性暴力を許さないという立場に立つのなら
それは
「全ての性暴力」に対してでなければならないはずなのに、
どうしても
このことには#MeTooだけど、あのことは違う
という態度をとる人たちが時々います。
とても悲しいけれど。

たとえば
自分たちと思想信条の違う人の加害行為は非難し、性暴力は許さない立場に立つのに
自分たちと同じ考えや目的がある人、またその目的のために必要な人の加害行為は見て見ぬ振りをする…。
それどころか、加害者を擁護したり、被害者を貶めるような言動を見かけることもありました。

MeTooは、そんな限定的なものなのでしょうか?
性被害は
被害者や加害者が誰なのかで、
何か変わるのでしょうか。

そして、
セカンドレイプが軽視されていること。
MeTooの中に含まれていないのではないか、と感じることが時々あります。
でもセカンドレイプは言葉の通り。レイプ(性暴力)と変わらないこと。
時に、最初に受けた被害そのものよりも、被害者を深く傷つけることもあると思います。

以前わたしは
性暴力に軽重の差はないのではないか
というブログを書いたけれど
それをいま改めて強く言いたいです。

加害者が自分と遠く離れた人であれば
性暴力は許さない、と言うのに
身近な人だと、「その人にも事情はあるかもしれない」とか「その人の話を聞いてみないことには判断できない」などと言う人。
知っている人の加害行為の場合、その現実を受け入れるのに時間がかかったり、思わず否定したくなる気持ちも、分からなくはないけれど
それは
「全ての性暴力を許さない」という姿勢とはかけ離れているものではないでしょうか?

タイトルにもした「ダブルスタンダード」とは
“同じような事柄について、矛盾する二つの基準を使い分けること”です。
こっちはMeToo、こっちはそうじゃない
という姿勢こそ
ダブルスタンダードだと思います。

被害にあった人に
“私を除いた”MeTooなんだ
と思わせるようなことは、しないでほしい。
それは
加害の側に立っているのと変わらないと、私は思います。

MeTooというのは
被害にあいながらも、これまで声を上げることもできず、なかったことにしてきた、されてきた人たちにとって
希望であり、支えであると思います。
だからこそ、まわりの人間が
あれはMeToo、これはMeTooじゃない、と身勝手に切り分けたりしないでほしい。
心からそう思います。

わたしは
全ての性暴力にNOを言い続けたいし
社会全体がそうなっていってほしいと、心から願っています。




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